作曲を見つめる~作曲行為を理解するための仮説モデル

エッセイ

(初出1999年10月21日)

作曲という行為は、作曲者にとっても、また周囲の人にとっても、「なぜそれが出来るのか分からないもの」という風に捉えられることが多い様に思います。作曲においては、他の表現(絵画、造形、演劇等)に比べて“ひらめき”(インスピレーション)が重視される傾向がありますが、これは「作曲行為の不思議さ・分からなさ」の裏返しなのではないかとも思えます。

例えばスポーツ選手の試合や演技は、必要とされる体力・技術といった「目に見える部分」と、スポーツセンスとしか言い表せない「感覚的な部分」との関係で、ある程度は捉えることが出来ると思います。しかし作曲行為に対しては、かなりの部分を感覚的なものとして捉えようとしているのではないかと感じます。

こう言って良ければ、「作曲行為の神聖化」という状態が存在しているのかもしれません。ですが、出来あがった作品から理解を超えた何かを感じることがあるからと言って、その創作過程全てを不可侵なものとしてしまうことは、作曲者の技術や努力、積み重ねといったものを見えなくしてしまい、かえって「本当に感覚的な部分」を蔑ろにしてしまうことになるのではないでしょうか。

このコラムは、作曲を深めて行くために新たな視点を得ようという思いを持って書かれています。言うまでも無く、作曲のためには色々な音楽に触れ、感じることが大切です。そして音楽は学問の世界に閉じられたものではありませんし、言葉で全てを捉えることが出来るものでもありません。

そんな中、言葉の限界をわきまえつつ考察することで、結果的に今までとは違った角度から“音楽の素晴らしさ”に気付くことが出来るのではないかと思います。

第1章:ひらめきについて

よく耳にする言葉に、「作曲はひらめきだ」とか「良いメロディーがひらめかない」とか「ひらめくのを待とう」とか、また、「音楽は天からの授かりもの」という様なものがあります。最後の言葉などは、モーツァルトの伝記に出てくる「完成された形で天から降りてくる」という逸話をイメージされる方も多いのではないかと思います。

さてモーツァルトの話の真偽はさておき、たしかに作曲という行為にはひらめきというものが関わっていると言えます。「なにか」が頭に降りてくるというのも、まんざら嘘ではないと思われます。では、例えば作曲の初心者が「さっぱりひらめかないよ。自分には才能がないのかな」と感じているならば、それは諦めてもらうしかないのでしょうか。

いいえ。ここに作曲、ひいては創作全般に対する大きな誤解が潜んでいるのではないかと思うのです。以下は、作曲という行為を理解するための、ひとつのモデルの提案です。まず最初に、作曲というものを次のように仮定できないでしょうか。それは、作曲というものは不定形の何だか分からない「なにか」がひらめいたとき、それを具体的な音の世界に変換する技術のことだと考えよう──というものです。

言い換えるなら「作曲する」という行為は、自分の中に持っている「ひらめきを音楽に変換する装置」を働かせることだ、ということになります。この仮定を拡大して適用すると、絵を描くことなら「ひらめきをキャンバス上に変換する装置」を働かせることだと言えますし、彫刻なら「ひらめきを立体に変換する装置」を働かせることになります。

例えば、ヨーロッパ文化圏から遠く離れ、言葉も異なる地に住む人の頭の中に突然、キリスト教の讃美歌がラテン語でひらめく可能性はどの程度でしょうか。やはり讃美歌を作れるのは「ひらめきをラテン語に変換する装置」や「ひらめきを西洋音楽に変換する装置」などを持つ人、つまりラテン語を操る技術を持っていて、西洋音楽の作曲技術を持っている人でしょう。

そして、出来あがった讃美歌がどのようなものかが問題なのであって、その作者にどのようなひらめきがあったか、ということは大抵別問題でしょう。そのことが話題に上るのは、名作だと感じた人々の間で「素晴らしいひらめきがあったに違いない」と思わずにはいられない、そのような時でしょう。いくら作者が「ひらめきにあふれた最高傑作」と自画自賛しても、聴いてみてどう思うかを抜きにすることは出来ません。

ここで注目して欲しいのは、「ひらめき」自体が何なのかではなく、それがどのように表現されたのかを問おうとしている点です。作者の「変換する装置」を経た結果を(作品や演奏表現等を)人々と共有しているのであって、作者の「ひらめき」そのものを共有しているのでは無いと考えるのです。

こう言うとこんな声が聞こえてきそうです。「たしかに私の頭に具体的なイメージがひらめいたのだ。ひらめきは具体的なものだし、そこから生まれた作品を人々と共有しているのだから、ひらめきを共有しているのだ」と。その通りと言えばそれまでです。それに、自らの意思によって自由にならない「ひらめき」というものに、畏敬の念を感じます。本当に「具体的な音楽」が降臨するのかもしれません。

しかし、自ら努力を重ねて「向上しよう」と欲する気持ちがあるならば、それをどの方向へ向ければ良いのかを考えた結果として、現在ここで仮説を立てています。このような経緯をご理解いただいて、もう少しお付き合い下さい。

では、一体「ひらめき」とは何なのでしょう。それは例えるならば「あらゆる創造性の種(たね)」のようなものではないでしょうか。

この種はどこに落ちているのか、たくさん落ちているものなのか、それは誰にもわからないことでしょう。それどころか、種そのものを見たことが有る人はいるのでしょうか。しかし、肝心なのはその種を手にしたとき、つまり「ひらめいた」ときにどんな音楽を作り出したかなのです。そして、上の文章でひらめきのことを「不定形のなんだかわからない、なにか」と表現しているように、この種には具体的ななにか(例えばメロディーや和音、曲全体のイメージ等)は込められていないと思っています。具体的な何かは、そこから作者が生み出すものなのです。

さて、作曲からひらめきという要素を除いてみると、作曲というのは技術的な側面を多く持っていることに気付きます。言い換えればそれは、曲を成り立たさせる要素を作り、それらをまとめ上げる技術といえるでしょう。それは名工と呼ばれる人達の、その熟練の技と同じ質を持つものです。そのような研ぎ澄まされた技を持つ者の元に「不定形のなにか」がひらめいたとき、つまり創造性の種を手にしたとき、その人ならではの音楽への変換が行われ、個性を持った作品が完成するというわけです。

仮に、同じひらめきが作曲未経験者のもとに降りてきても、上記の名人と同じものが出来上がることが無いということは想像に難くないでしょう。これは「文化・言語の異なる人と讃美歌の関係」の例と同じことです。

先のモーツァルトの話で考えると、彼は幼少からピアノの演奏や作曲の手ほどきを受け、技術的な素地はすばらしいものであったと思われます。まさに早熟の名工といったところです。そんな彼のもとに「なにか」がひらめいたのです。そして彼はその「なにか」をきっかけに具体的な音楽を作り上げていったと思われます。彼自身にとっては次から次へと天から音楽が降りてくるようだったのでしょうが、それも今までの修練・実践から得た経験の賜物であり、言い換えるなら「ひらめきを音楽に変換する装置」の優秀さゆえであったということです。

もし最初から、誰も思いつかなかったような斬新で革命的な音楽が、いつか頭の中に降りてくると解っているのなら、だれも作曲のことを探求しようとはしないでしょう。ただひたすら、ひらめくのを待てば良いのですから。それはまるで、現代日本に居ながら白馬の王子様が求婚して来るのを家で待っているかのようです(しかし奇跡の存在は否定しませんが)。

それならば、作曲の技術的な面の習熟に徹していれば、いつかは素晴らしい、本人も周囲も納得のいく作品が出来上がるのでしょうか。自分の中の「ひらめきを音楽に変換する装置」を、より高度なものに錬成していけば良いのでしょうか。次はこのことについてお話しします。

第2章:情感の揺れ動き

それならば、作曲の技術的な面の習熟に徹していれば、いつかは素晴らしい、本人も周囲も納得のいく作品が出来上がるのでしょうか。しかし、ここには大事な要素が抜けています。それは、自分が作った音楽を聴いているときの情感の揺れ動きです。

その情感の揺れ動きに対して、あなたはどんな価値判断をするのでしょうか。「すき、嫌い」「格好良い、格好悪い」「明るい、暗い」「神秘的」「颯爽としている」「重厚な」等など。しかし大抵は言葉にならない情感を抱くことになるでしょう。そして、この情感の味わいが音楽を作る楽しみのひとつであることは確かなのではないでしょうか。あの「鳥肌の立つ感覚」の素晴らしさです。

つまり作曲を長年続けていく過程で、自分の技術的方法と情感との交わりをより豊かにしていくことが大事なのではないかということです。この二つの要素の豊かな交わりがあってこそ「ひらめきを音楽に変換する装置」はより良いものになって行くのではないでしょうか。

管楽器や弦楽器の編曲技術を例にとってみます。これらの技術は音域を覚えたり、様々な状況での楽器の鳴り方などを実際に耳にして自分の経験として積み重ねていくものです。また、様々な観点から分析された、編曲法と呼ばれる知識が長年に渡って蓄積されています。そのような経験や知識を元にして実際に曲を組み立てていく訳ですが、その編曲に対して効果や有効性といった価値判断をする「情感の揺れを感じ取る自分」がしっかりしていないと、ひとりよがりで理屈倒れな編曲になってしまうでしょう。

技術的な探求を進める時には、第一の聴衆としての「情感の揺れ動き」を大切にしたいものです。

技術だけでも作曲はできます。形の整った、ある限定された法則にのっとった、なによりも作曲者自身の心が動かされない、そんな曲です。それでもほかの人達を感動させることはできるでしょうが、作曲者が感動してもいない曲を提供するのには抵抗を感じます。

このことに関して、ある雑誌にこんな話が出ていましたので引用します。対談中、ある音楽学校でのエピソードとして出てくるもので、そこには何ともこわばった空気が感じられます。

松村氏「芸大やめる頃だけど、作曲科の男子学生が、自分はどうしても現代音楽が好きになれないというんだね。学生たちのフォーラムのような場でそう言った。そうしたらほかの学生全部から寄ってたかって袋叩きにあってたよ。ある上級生の女子生徒は”私なんか無理してキタナイ音書いてんのよ!”なんて、その学生を諭してるんだ(笑)。これはちょっとこわいことだったな。(後略)」(「音楽の世界」99年7月号より)

なんとも悲しくなり、考えさせられる話です。彼女には自分の美的価値観に正直であって欲しいと思います。表現上の必要から汚い音を書いたのではなく、無理して書いたその汚い音を聞く立場はどうなるのでしょうか。彼女は作曲を専門に学んでおり、高度な技術をお持ちのはずですが、その技術は当人の感覚に無理を強いてしまっているようです。

高度な技術や理論というものは、その理解に必要な概念や知識が高度なのであって、音楽性が高度だということと質的に同一ではありません。難解な技術や理論を用いること自体が作曲の目的とならないよう自戒したいものです。

このような技術偏重に気を付けながら、美的な価値判断をしようとする自分の意識を大切にしていくことが肝心だと思います。技術的・理論的な自分と、感情の生き物としての自分。この二人が豊かな交わりを持っているとき、そこにはダイナミックな情感の揺れが生まれ、その結果もしかすると「ひらめき」はあなたにふさわしい贈り物をくれるかもしれません。

ここまでかなり抽象的な話が続きました。次は今までの内容を具体的に置き換えてみます。

第3章:作曲という行為のモデル化

まずは「作曲という行為=ひらめきを音楽に変換する装置の働き」についてまとめておきます。この装置の中身は、音楽に関する技術(音を操る技術。演奏技術、作編曲技術、理論的解釈技術など)と、その技術から生まれた「音」に美的判断(経験則)を加える「主観的な心の働き」から成り立つと考えられます。

ある作曲者の頭に何かがひらめいたとします。そしておもむろに、ある和音を弾きました。この「ある和音」がどのようなものであるかは作曲者の「変換する装置」の違いによります。ある人はのFメジャー・コードを弾くのかもしれませんし、特殊なハイブリッド・コードを弾くのかもしれません。和音のことを知らない人なら、和音ではなくメロディー等を弾くのかもしれません。とにかくその人の技術で表現できる何かが現れます。

こうして弾いた和音を聞いて、彼はメロディーを考え始めたようです。想像力を駆使してあれこれ考えています。しかし「誰も見たことの無い、想像もつかないものは、誰も想像できないことに気が付いた」という故キューブリック監督の逸話の様に、彼の作り出すメロディーは過去の経験と記憶の積み重ねの上に成り立つものと考えられます。一見、思いも寄らないものが出来たときも、そのメロディーが生み出される素地は、自分の過去の中にあるものだと思います。

彼は色々なメロディーを試していましたが、やがてあるものに落ち着いてきました。この間、彼の中では様々な情感が生まれ、価値判断を繰り返したことでしょう。この状態を「技術的方法と情感との交わり」と呼ぶわけです。曲は大分まとまってきましたが、一ヶ所迷っているところがあるみたいです。その一ヶ所を「ミ」にしようか「ソ」にしようか悩んでいる様子です。何度も聞き比べながら考えています。このとき彼の中では、繊細な情感の揺れが起こっていることでしょう。

この様にして彼の作曲は少しづつ進んで行きました。サブメロディも付いたりと、演奏パートも増えてきました。あるときは、金管セクションのボイシングをまず技術的に処理し、聴いてみて気になる部分を手直ししたりしています。ここでも一種の「技術的方法と情感との交わり」が生まれています。「理論的にこうすべきだから」という硬直した考えは持ちたくないものです。

彼は曲のある部分で、彼にとって初めての技法を実践しようとしています。ある技法を拡大解釈することによって、不思議なサウンドを作り出そうと考えたのです。早速試してみたところ、気に入るようなサウンドになりません。少しづつ変えてみても結果は思わしくありませんでした。結局は諦めましたが、今回の実践から得た経験は彼の技術にフィードバックされ、次の新たな試みの糧となることでしょう。

こうして彼の技術は積み重ねられ、実践によって鍛えられ、そして豊かになっていきます。そんな向上を続ける彼の元にひらめきが降りてくるとき、そのときはどんな「音楽への変換」が行われるのでしょうか。興味が沸くところです。

ちなみに、即興演奏でも同じことが起こっていると考えられます。ただ、リアルタイムに音楽が進んでいきますので、作曲のようにじっくりと考え込んでいられません。いっそう、その人の経験に裏付けられた技術が大きな要素となるでしょう。そして「技術的方法と情感との交わり」もダイナミックかつ繊細なものとなり、「ひらめきを音楽に変換する装置の働き」は激しさを増します。

経験に裏付けられた技術によってひらめきを音に換え、めまぐるしく起こる情感の揺れを感じ取り、演奏にフィードバックさせ、新たな音を表現する。新たに起こる情感の揺れを感じ取り、またフィードバックさせる。そこへ時折ひらめきが舞い込み、また新たな音が生まれる。演奏者の心の中は、このような状態であろうと思います。

あるときはひらめきが音になり、あるときは実践に裏付けられた技術で音を組み立てる。共に背景にあるのは当人の「音楽的経験の総体」です。それは今までどんな音楽を聞いてきたのか、どんな音楽を作ってきたのか、どんな演奏をしてきたのか、それらを通じてなにを感じ取ってきたのか、なにを感じ取ろうとしてきたのか、といった様々な実践経験の総体です。

「音楽的経験の総体」が豊かになれば、「ひらめきを音楽に変換する装置」はより様々な機能を発揮し、また「技術的方法と情感との交わり」もその豊かさを増すことでしょう。

もし、作曲者の音楽性というものに優劣を付ける事が許されるのなら、それは「音楽的経験の総体」を土台として、どれだけ豊かな「技術と情感のフィードバックを持った変換装置」が育まれているか、という点によるのではないかと思います。注意したいのは、変換装置の「豊かさ」というのは、あくまで「豊かさ・豊饒さ」であって、「技術的複雑さ」でもなければ「理論的高度さ」でもないことです。もちろん、それらが含まれることは大いに有り得ますが、その方向だけを指したものではないということです。

最後に、忘れてはいけないのが、その変換装置によって「どんな音楽が表現されたのか」が一番大切だということです。ある曲を作ろうとするときのコンセプトの質が、作品の出来を保証することはありません。聴き手は、作者の観念や概念を理解するのではなく、まず音楽そのものを聴くのですから。その後、作品と作者に興味を持った聞き手はそれらを知ろうと欲するでしょう。コンセプトについて夢想することの楽しさはクリエーターならわかります。しかし、「技術的方法と情感との交わり」のさなかに息づく、作曲の楽しさと苦しみというリアリティには敵わないでしょう。

終わりに

以上ひらめきをキーワードにして、変換装置という仮説を立て、私なりに作曲という行為のモデルを提示することを試みてきました。

作曲に長けた人に共通することは「自分の出す音をよく聞いている」という、なんとも当たり前の事実です。また、人間には「思考のフィードバック」という仕組みがあり、一歩間違えば妄想になってしまいますが、この仕組みのおかげで深い思索を行うことが出来ます。作曲という、とても感覚的で、かつ論理的な行為を捕まえるために、この二つの点を用いてみました。脆弱な文章ですが、なんらかのお役に立てれば幸いです。

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Masaharu      

ジャズとクラシックをベースに、実験的なクロスオーバー音楽を作曲。舞台音楽やゲーム音楽の制作経験を活かし、物語性のある音楽を追求。