(初出2009年6月26日)
この文章は、自分の制作モードの心的状況を印象批評風の文章で書いてみる試みです──。
己が仮想するものを具現化したいと渇望するとき、そしてその仮想が現実化のプロセスを流れ始めたとき、そこでは常にヒリヒリとした感受性が立ち上がってくるのを感じます。
しかしそれは、感性や創造性を十全に発動させる直接的な力となるものではなく、「“私を刺激するもの”を生み出す私」を過敏に感受する力というような、そんな姿を露わにするものだと言えます。
度が進むと、その刺激は自分と他者の境界があいまいなままで感じ取られ、刺激に翻弄される自己の足下はとても頼りないものとなります。それはまるで、激しい感情移入がもたらす「自己感覚が喪失する体験」かのようです。
なお、目の前に生まれつつあるものに過敏に反応しながらも、しかしそれによってより良く創られて行く道筋が見えるのか、更には具体化して行けるのかどうか、それはまた別の問題です。
創出(具体化)が上手く行くためには、上記の自己のみの力では無理です。そのためには、価値評価を下すもう一つの自己による「突き放した視線」と「共感と哀れみ」の双方が必須と考えます。
そして、ヒリヒリした感受性を持った自己はそれらを受け入れると共に傷つき、またそれらに救われ助けられるのです。
皮肉にもその“共感と哀れみ”を感じ取るためにこそ、ヒリヒリした感受性は必要とされ、ここに逃れ難いループ構造が現れてきます。
このループが良い働きをもたらした場合、そこでは作品が生まれると同時にクリア(浄化)が達成されるのですが、逆の場合、作品を通じた自己卑下に繋がって行きかねません。
そこではある種のリスクを取らざるを得ませんが、おのれの仮想するものを具現化したいという欲望があり、それを現実化させることでしか得られない心の報酬(単純に、聴くことによる感動と共感、普遍性の確認など)に惹かれる以上、これからも続けることになるのでしょう。
──以上のように書きながら改めて思ったのは、「“表現する自分”を表現するために言葉を使うのは面白い(興味深い)」ということでした。
自身は器用な人間ではないので、軸足は常にひとつの場所にしかおいておけません。その代わり、軸足を豊かにするためにあれこれ考えたり実行したりしますし、言葉がその一助になってくれるのであれば素直に活用していきたいものだと再認識しているところです。