作曲者から見る音楽理論~二つの音楽理論のタイプとその接し方

エッセイ

(初出1999年10月22日)

第1章:理論という名の物語

まず始めに、辞典から「理論」と「法則」という言葉について調べておきます。あらためて調べてみると、音楽というものから受けるイメージからは程遠い言葉が並びます。

りろん{理論}:個々の現象を法則的、統一的に説明できるように筋道を立てて組み立てられた知識の体系。また、実践に対応する純粋な論理的知識。「-を組み立てる」「-どおりにはいかない」

ほうそく{法則}:守らなければならない決まり。規則。おきて。「-を守る」
一定の条件下で、事物の間に成立する普遍的、必然的関係。また、それを言い表したもの。「遺伝の-」「因果の-」
(『大辞泉』小学館 より)

さて、世間一般に音楽理論と呼ばれるものにはいくつかの種類がありますが、大抵は区別されずどれも「音楽理論」と呼ばれています。

音楽理論は大別すると、まず二つに分けられます。ひとつは、実際の作品を何らかの方法で分析し、その結果を統一的法則体系としてまとめたものです。難しく聞こえますが、実はこれは「和声法」や「旋律理論」、「コード進行理論」などと呼ばれるようなタイプの理論のことです。これをここでは「作曲法タイプ」と呼んでおきます。

そして二つ目は、同じく実際の作品を何らかの方法で分析し、ある現象を再現・実践するための「こうすればこうなる」を論理的に積み上げたものです。これは「アレンジ理論」や「管弦楽法」といった理論に該当し、これを「編曲法タイプ」と呼んでおきます。

この章では、まず「作曲法タイプ」の理論についてお話しします。

一つ目の「作曲法タイプ」の特徴は、その理論体系が「閉じている」ことです。つまり、ある限定された音楽状況では、その現象を統一的に説明することが出来ますが、枠の外ではその理論は誤謬と化してしまいます。簡単に言えば、例えばクラシック古典和声法ではブルースを統一的に説明できないというケースを指しています。

※クラシック古典和声法におけるブルース(飛ばして頂いても結構です)。

クラシック古典和声法ではドミナントであるV度和音からサブドミナントであるIV度和音への進行は避けるべきものとされています。トニックの倚和音(IV/ I )という形で続くことがあるだけで、これだと形はサブドミナントになりますが、機能はトニックです。この理論ではブルースのV度 – IV度 – I度という進行を説明することが出来ません。そしてなによりも、長調の音空間に短三度と短七度と減五度(増四度)が「ブルー・ノート」と呼ばれ共存している現象を説明できません。これらは「特殊な例外」として分類するしかありません。

さて、この「作曲法タイプ」の理論は、音楽のある要素を包括する法則体系として在ろうとします。例えばコード進行の理論なら、音の縦の重なりの連続という要素について法則体系を作ろうとします。自然倍音を拠り所として、和音の成り立ちと五度の音程の優越性を定義し、音のつながりを法則化していこうとします。

「なぜ、このような和音の連続が可能なのか、その根拠はなにか」というような問いに理論は答えを出そうとし、一貫した法則を提示しようと試みます。ひいては、生み出され得る和音連結の全体をも導き出そうとします。なぜなら、物理法則によって自然界を描くことでこの世の中の「現在と過去と未来」を把握しようとすることと同じ欲望が、ここにも存在するからです。

しかし、音楽界の万有引力とも言える「自然倍音」を根拠とする理論ですら、その足場は危ういものなのです。理論の根拠となる部分に疑わしさが出てくると、これもまた誤謬と化します。それならばいっそ理論の正当性を問うことを棚上げにし、「音楽を説明するひとつの物語」として受け止めておくのが妥当ではないかと思います。

逆にいえば「作曲法タイプ」の理論というのは、ある限定された音楽を説明できる様に組み立てられた「知識の体系」であり、自らの設定した、ある限られた条件の元でのみ真となる法則だということです。ちなみに「ある限定された音楽」というのは、ジャンルが限定されることを指す場合(上記のクラシックとブルースの例)と、要素が限定される場合(和声のみ、旋律のみ、リズムのみ等。後の二つは民族音楽理論によく見られます)とがあり、大抵はそれらが組み合わさっています。

これらの理論は、曲の分析や理解には役立ちますが、それを音楽の普遍的法則と頼って盲信することには疑問を持たざるを得ません。これは医学の解剖学に例えられるでしょう。人体の仕組みがいくら解っても、それは「人間」を知ることと同じではありません。何よりも、その人体を生き返らせること、命を作ることは出来ないのですから。

では「作曲法タイプ」の理論に対して、作曲者はどのように接して行けば良いのでしょうか。それは、その理論が妥当かどうか、真か偽かを検証するのを一旦保留し、その理論を用いた音楽、もしくはその理論で分析可能な音楽がどんな響きを持つのかを感じ取れば良いだけなのです。

身近な例でいうと、作曲初心者が「コード理論」の本を手にするときが挙げられます。最初のうちは、そこに書かれている様々な前提や法則といった知識体系を、無理に理解しようとしないことです。体系的な理解というものは、ある程度の時間をかけた後に経験の連関として生まれてくるでしょう。それに、そこにあるのは限定された音楽に対してのみ有効な知識体系ですから、ある意味トランプのルールブックを読むような感覚でも良いのかもしれません。まずは七並べの楽しさを味わってみましょう。

クラシック古典和声法において「連続五度」や「増音程進行」などが避けるべきものとされている理由は、基本的にこの和声法が「合唱」をベースとしたもので、「歌いやすさと声部の独立性」に価値を置いているからです。これらに価値を置かない音楽は世界に山と有ります。このように理論は往々にして閉じています。それよりも、譜例を実際に音にしてみて、当人が知らなかった響きに触れてみて、未知の音世界に対する興味を持つことが大切だと思います。

また別の例として、天気予報の不快指数があります。変な例ですが、ここに「不快な空間」を作ろうと考えている人がいるとします。その人は不快指数の成り立ちや根拠、その理論といったものを理解するよりも、まずは「不快指数100」の時に表へ出てみて、その不快さを味わうべきです。そして、なぜ人々の間にこんな指数のコンセンサスが得られているのかを疑問に思った時、その理論的追求をすれば良いのです。そうすれば、「不快な空間」を成り立たせる要素は湿度や気温だけではなく、様々なものがあることに気付いていくことでしょう。

閉じた理論に則った作曲は、徹底すれば効果的だと思われます。ある範囲の音楽作品から抽出された「知識体系」と「法則」にそって具体的に作曲することは、その音楽の歴史的エッセンスに触れることと等しいからです。それに、時間をかけて何かひとつ閉じた理論に精通しておくことは、その後に大いに役立つことでしょう。次章でお話ししますが、これは「音楽的なものさし」として生きてくるのです。

その理論の存在意義は、作曲者に取り込まれ実作を通して現れてきます。実作を通して作者の中に経験則が生まれ、それは独自の理論として結実することもあるでしょう。

作曲者は音楽学者ではありませんし、極論としてはクリエイターとして科学的妥当性からすらも自由で有り得るでしょう。最終的には憑依的・主観的価値観で独自の音楽を築いて良いと思います。音楽理論自体がどうなのかではなく、それをどの様に作品の具体的な響きにしていくか、ひいては自分の方法・スタイルとしていくかが重要なのではないでしょうか。

というわけで「作曲法タイプ」の理論の特徴や、その接し方についての話でした。次は「編曲法タイプ」についてです。

第2章:素材として、ものさしとして

続いて「編曲法タイプ」の理論についてです。

このタイプの特徴は、その多くが「経験論」から成り立っていることです。つまり、その理論の考案者の経験から導き出された価値体系が表わされていると考えられるのです。仮に、その理論の前提となるもの(音響物理学や認知心理学など)の根拠が危ういものであったとしても、その「編曲法」から得られる効果が活用者にとって有用でさえあれば、その存在価値は十分であると考えます。

例えば「怖い音楽」をつくるための編曲法として「不規則に半音で動くフレーズを低音で奏する」というものが有るとします。その理論的説明として「認知心理学上、不規則な動きと半音を用いて音楽的予測をさせ難くすると、不安感を呼び起こさせる」などと記されていることでしょう。ここでは「作曲法タイプ」と違い、理論的整合性を最初から棚上げにしてもかまわないと考えます。ですから、認知心理学による解釈や根拠が覆されるようなことがあったとしても、それまでの効果の質に変化は無いのです。ただ、その効果の説明や解釈の仕方が変化するだけなのですから。

「管弦楽法」に代表される楽器表現法も、考案者の経験論から成り立っています。これを確認するには、時代の違う複数の管弦楽法の書物を紐解くだけで十分です。そこには考案者の美的感覚を反映した文章がたくさん並んでいます。同様に「バンド・アレンジ」を始めとする現代の編曲法にもこれらの特徴が伺えます。

これらの例は、考案者の経験から生まれた、効果の価値体系(「こうすればこうなる」の連関)としての理論と言えます。

その他に「作曲法タイプ」の理論を拡大・発展させて生み出された編曲法があります。この種類のものとしては、例えば「アッパー・ストラクチャー・トライアド(以下UST)」というものがあります。これは「作曲法タイプ」の理論を拡大解釈して、音楽素材(フレーズや和音等)を処理する技法として独立させたものと言えます。技法の成り立ちとその根拠は、元となった「作曲法タイプ」の理論にあります。

※【参考】アッパー・ストラクチャー・トライアド(UST)について。

「UST」とは、コード理論を発展拡大したもののひとつです。コード(和音)の拡張として三度堆積を高音域に重ねていくことにより、「テンション」と呼ばれる二次的な構成音が得られます。いわゆる「9度、11度、13度の音」と呼ばれるものです。USTは、これらテンションを含んだコードを具体的にボイシングする(音符を配置する)ときに用います。USTを直訳すると「三和音(トライアド)による上部構造」となり、その名の通りテンションとコード構成音を組み合わせて、中高音域に三和音を形作るようにボイシングする技術を指します。三和音の形は安定度の高い音集合ですので独立した響きを感じさせ、これがUST独特の調性感を醸し出します。

具体的には、例えば「C(9,#11,13)」にこの技術を用いた「D/C」というUSTがあります。USTでは、この様に分数の形で表記します。これは「Cメジャー・トライアド(三和音)の上にDメジャー・トライアドが形作られている」ことを表しています。一番簡単なボイシングとして、鍵盤上で左手で「Cメジャー・トライアド」を、右手で「Dメジャー・トライアド」を同時に押さえれば「D/C」のサウンドになります。ポイントは、右手の「Dメジャー・トライアド」は、「Cメジャー・トライアド」を拡張して得られるテンションを組み合わせて出来たものだということです。

この様に、USTは「自然倍音を根拠とした和声理論」に全面的に依拠した技法です。テンションは三度堆積を根拠とし、三度堆積は自然倍音を根拠としており、そしてUSTはこれらの概念の上に成り立っています。

これと似たようなものには、「4ウェイ、オープン、クローズ、スプレッド、ドロップ」等などの各種ボイシング技術や、「ディゾナンス・コントロール」、「ライン・ライティング」といったメカニカルなフレーズ処理法などがあります。この種の技法の価値体系は、活用者が実作の上に作り上げて行くしかないと思います。逆に「単なる手段」であるとも言えます。これらは皆、根拠となる理論を発展・拡大して考案されたもので、合理的に洗練された「機械的な処理法」に徹しています。

このように、これらの編曲法に接するにあたっては「作曲法タイプ」の理論と違って、技術的ノウハウの集合体として実用的かつ貪欲に接していって良いと思います。その時の自分が必要だと感じたことを、必要なだけ取り込んで蓄積して行きましょう。DAWの打ち込み技術も一種の編曲法ですし、シンセサイザーに習熟することも編曲法の一部となります。これらも「こうすればこうなる」のかたまりですから。

まとめ

作曲者が「作曲法タイプ」と「編曲法タイプ」の理論それぞれに接する時の視点には、次のようなものが考えられるでしょう。それは、作者はそれを知ってからどのような音楽を作り出すのかというものと、作者の作品はそれら理論によってどのように解釈できるのかというものです。

どのような作品を作り出すのかということについては、前章でもお話しした様にある意味当たり前のことと言えます。そもそも表現のテーマというものは、ありとあらゆる所に転がっているものです。理論をそのテーマとする気持ちで接すれば、それは体系的な法則としてではなく豊穣な一素材という新たな表情を見せ始め、作曲者がそこから何を生み出すのかが問われるわけです。つまり『作曲を見つめる』でお話しした「変換装置」を、理論に対して働かせてみようということです。

また逆に、理論を、限定された中ではあっても統一的法則体系を成すものだと客観視することによって、ある特徴を持った「ものさし」を手に入れることが出来ます。理論を用いて作品を分析することは、本質的に主観的価値観しか拠り所のない作曲の領域に、まさしく「ものさし」を持ち込むことに等しいのです。

このものさしは目盛りによって数字が出たりして結果を示してくれますが、「良し悪し」の価値は示しません。しかし、ある印象を与える作品群に共通するものを、このものさしは教えてくれるでしょう。もっと細かく、ある響きを持つ和音群に共通する音程の組み合わせや音域を、このものさしは教えてくれるでしょう。また別なところでは、ある演奏家のアドリブには高い割合で特定のスケールが用いられていることを示してくれるでしょう。

このものさしは、ものさし自身が決めた尺度であらゆる音楽を測ろうとします。しかし棒定規では曲面を上手く測れないように、分析困難な対象は「例外」としてひとまとめにしてしまいがちです。なかにはメジャーのように平面も曲面も測れるものさしがありますが、その扱いは難しいのかもしれませんし、正確ではないのかもしれません。

実は、教育機関において初期のうちから音楽理論を学ぶことの目的のひとつに、このものさしを手に入れるためというものがあります。自分が作るためというよりも、自分の曲や人の曲を感覚的のみならず分析的にも理解できる能力を身に付けるため、一見なんの役に立つのか解らないような「音程」や「音階」「調の関係」といったことを覚える過程があると言えます。

小学生の時、掛け算の九九を覚えさせられたことを思い出してください。それがどれほど役立つものなのか、ほとんど教えられないままに覚えさせられ、単調な筆算へと進み、桁数の多い掛け算が出来るようになっていきます。それがいかに自分の身に付いていたかに気付くのは、算数の例題のイメージとは異なるリアルな実生活においてでしょう。

ものさしとしての音楽理論に関しても、ものさしの有用さを理解できるまでは九九のような単調さや無意味さを感じることでしょう。しかし、ものさしを色々な音楽に当てはめて、些細なことに「なるほど」と思ったり、「例外としか考えられない」と分類したりしながら、いつのまにか距離感覚を身に付けていることでしょう。時間が経つうちに自然に身に付いたものは、本人に自覚が無くとも大きな力となっているのものだと思います。

音楽現象というのは聴き手(作曲者)の感性の中に存在していると言われます。例えば「ドミナント・モーション」という現象は客観的に存在するものではありません。ただ、聴き手が感じ取るあるものが、その様に呼ばれるのです。増四度の響きが三度および六度の響きに移行したときの「あの感覚」のことを「ドミナント・モーション」と呼んでいるのです。

再三「響きに接する」という言葉を用いたのも、また『作曲を見つめる』で触れた「音楽的経験の総体」というものも、どちらも「音楽現象というのは聴き手(作曲者)の感性の中に存在している」という前提から来ています。音楽理論を理解して「知識の体系」を身に付けるだけでは音楽的には意味が無いでしょう。それを「感性の体系」にまで昇華させていくことが理想的だと思います。そして、そのためには長い時間をかけた音楽的経験の積み重ねしかないのでしょう。

音楽は本質として自由なものだと思います。どんなことをしたって良いでしょう。しかし、何をしても良いと言っても結局はその広大な自由に戸惑うことになってしまうでしょう。それならば、先人の知恵を通じて自分に出来ることを積み重ねていくことによって、自由の範囲を広げていくのが建設的であると思います。様々な音楽を聴いたり、文学や絵画、映像などの他メディアに触れて刺激を受ける様に、音楽理論への接し方も柔軟に考えて頂ければと思います。

関連記事

作曲を見つめる~作曲行為を理解するための仮説モデル
(初出1999年10月21日)作曲という行為は、作曲者にとっても、また周囲の人にとっても、「なぜそれが出来るのか分からないもの」という風に捉えられることが多い様に思います。作曲においては、他の...
続・作曲を見つめる~なぜ音楽による共感が可能なのか
(初出1999年11月12日)以前のコラム『作曲を見つめる』では、作曲という行為の「運動そのもの」についてモデル化を試みましたが、今回の「続・作曲を見つめる」ではその運動を取り巻く環境や現象の...
エッセイ
プロフィール
Masaharu      

ジャズとクラシックをベースに、実験的なクロスオーバー音楽を作曲。舞台音楽やゲーム音楽の制作経験を活かし、物語性のある音楽を追求。