このページでは、古今の作曲家や演奏家、音楽学者や哲学者、そして批評家達の残した「作曲に関する発言」を掲載しています。
そこには相反する言葉や、時代ゆえの熱を帯びた言葉などもありますが、あえて掲載しています。共感、納得されるも良し、否定、疑問に思われるも良しでしょう。作曲を見つめるきっかけとなることを願っています。
- 作曲発言集 その1
- 山田 耕筰(作曲家)
- フレデリック・ディーリアス(作曲家)
- ルドルフ・レティ(音楽学者)
- ベラ・バルトーク(作曲家)
- デューク・エリントン(作曲家)
- ミッシェル・カミロ(ピアノ演奏・作曲家)
- 伊福部 昭(作曲家)
- パウル・ヒンデミット(作曲家)
- リヒャルト・ワーグナー(作曲家)
- スザンヌ・ランガー(哲学者)
- クロード・ドビュッシー(作曲家)
- イーゴル・ストラビンスキー(作曲家)
- 近藤 譲(作曲家)
- アントン・ウェーベルン(作曲家)
- ピエール・ブーレーズ(指揮・作曲家)
- 別宮 貞雄(作曲家)
- ツッカーカンドル(音楽学者)
- ダリウス・ミヨー(作曲家)
- チック・コリア(ピアノ演奏・作曲家)
- ハンスリック(音楽学者)
- イーゴル・ストラビンスキー(作曲家)
- 武満 徹(作曲家)
- 作曲発言集 その2
- 作曲発言集 その3
- 作曲発言集 その4
作曲発言集 その1
山田 耕筰(作曲家)
「作るのではない。生活から生むというのが私の創作上の信条だ。生むまでの苦心、日一日の精進だ、精励だ、刮目だ。いささかの油断も無い、全く言語に絶えた、真剣な生活そのものだ」
フレデリック・ディーリアス(作曲家)
「音楽に何か別のものを模倣させようとするのは、音楽に“おはよう”とか“良いお天気ですね”と言わせるのと同じ位くだらないことである。他の方法では表現し得ないものを表現できてこそ、音楽に値するものである」
ルドルフ・レティ(音楽学者)
「なぜ音楽では、ひとつの音群には或る一定の音群だけが続き得て、たまたま調やリズムなどが適合する任意の音群は続き得ないかということは、どの音楽家にとっても重大問題のはずだ。実はこれは、単純素朴な疑問どころか、作品の仕組みの問題の核心となる根本問題なのだ」
ベラ・バルトーク(作曲家)
「今日の音楽は決定的に無調性の方向に向かって進んでいます。しかし、私達が調性の原理というものを、無調性の原理の絶対的な対立物として把握するならば、これは正しくありません。無調性の原理というものは、むしろ調性の機能が次第に緩められていく形で発展していった結果、導き出されたものです。しかも、この調性機能の発展は段階的、連続的に進められたものであって、そこにはどのような断絶も飛躍も見られません」
デューク・エリントン(作曲家)
「世の中には二種類の音楽しかない。良い音楽と、悪い音楽だ」
ミッシェル・カミロ(ピアノ演奏・作曲家)
「いろんな人達が僕の曲を演りたいと言ってくれるんだけど、みんな誤解している。知識がジャズの一面にだけ偏ってしまっていて、オーディションをすると他の面に対する理解が全く欠けているのがわかる。物事を育てて展開させて行こうと思うなら、その根源を探っていくことはすごく重要なことなんだ」
伊福部 昭(作曲家)
「作曲はやはり、音楽が持っている自律性で完成されることが最重要であって、その完成の認定にあたって、尺度の根底に民族性というのが出て来るんだと思います。決して、民族性が芸術における最後のものではありません。私達でも、古いギリシャのものや、アジアから発掘したものからひどく感銘を受けますよね。これは民族性というものの他に芸術としての自立的な完成度があるという証拠です」
パウル・ヒンデミット(作曲家)
「音楽が引き起こす反応は感情ではなく、そのイメージ、つまり感情の記憶である・・・。夢、記憶、音楽への反応-。これら三つはすべて同じもので出来ている。絵画、詩、彫刻、建築物・・・それらは-音楽とは対照的に-感情イメージを解き放つことはしない。そのかわり本物の、変形されたり修正されたりしていない感情に訴える」
リヒャルト・ワーグナー(作曲家)
「音楽が表現するもの、それは常に変わらぬもの、計り知れないもの、理想的なものである。つまり、何かの機会に何処の某が抱いた情熱とか、愛情とか、憧れとかではない。情熱、愛情、憧れそのもの、ありとあらゆることが原因で生じるこの感情そのものを表す。これこそが、音楽にだけ許された独特の性格であり、他のいかなる言語もこれには適さず、表現することが出来ない」
スザンヌ・ランガー(哲学者)
「つまり、音楽は、いわば繊細で感じやすい人生の“どうしてもそうならざるを得ない姿”、自己洞察の源のようなものを表現していると言っているのである。共感を訴えているのではないのだ」
クロード・ドビュッシー(作曲家)
「バッハには、音楽というものがそっくり全部含まれていますが、バッハは和声学の方式を軽蔑していました、本当ですとも。そんなものよりも、音響の自由なたわむれのほうが、彼には大事だったのです。平行し、交錯する音の曲線は、思いがけない開花を用意していました」
イーゴル・ストラビンスキー(作曲家)
「音素材をただ想像しながら創作するよりも、それに直に触れながら作曲するほうが、千倍も望ましい」
近藤 譲(作曲家)
「ロマン派以後、音楽の感情表現性を大事にするにつれて、細部構造というものが、作曲家にとっては、ある程度までどうでもよいものになってきた、という歴史があるような気がします」
アントン・ウェーベルン(作曲家)
「思想を表示することの全ての最高の原理はわかりやすさという法則です。楽想がわかりやすくなるためには何が行われなければならないのでしょうか」
ピエール・ブーレーズ(指揮・作曲家)
「創作者の批評活動は、書き著わされようが、単に考えられるだけであろうが、創作者自身の創造に不可欠なのだ。それは結局、書かれたあるいは書かれない“航海日誌”である」
別宮 貞雄(作曲家)
「多くの作曲家は、素人の表現論者に対しては音楽の自律性、音そのものの完全性を主張するものであるが、そして作曲するにあたって意識の上ではそのつもりで努力するものであるが、それだけが全てではないということは知っているものである」
ツッカーカンドル(音楽学者)
「一般に言われている音の三要素、つまり、高さ・長さ・色彩は音の物理的性質であって音楽的質ではない」
ダリウス・ミヨー(作曲家)
「ポリトーナリティもアトーナリティにも作曲家の想像や幻想に、より広い領分と、より豊かな表現と、より複雑な音階とをあたえるだけのものである」
チック・コリア(ピアノ演奏・作曲家)
「学習や練習で何かを知ることは可能だが、一方、新しい能力(可能性)について考え、それを創り出すことによって未知のことを知ることも可能なのだ」
ハンスリック(音楽学者)
「音の中に或る感情の直接的流出を許す行動というものは、一音楽作品の創作にあるのではなく、むしろその作品の再生、すなわち演奏にあるのである」
イーゴル・ストラビンスキー(作曲家)
「作曲家は自ら自分の必要とする抵抗を創造しなければならないのである」
武満 徹(作曲家)
「作曲の仕事というのはやはり、何かをそこに書くというよりも、最初に自分が聴くということがその本質だと思うのです。作曲家はなによりもまず最初の聴衆なわけですから」
作曲発言集 その2
シェーンベルク(作曲家)
「芸術とりわけ音楽における形式の目的は、まず判り易さにある。楽想・展開・論理が把握できれば聴き手も満足でき開放感を感じられる。これは心理学的に言えば、美感と密接な関係をもっている。だから芸術的価値が判り易さを必要とするのは、知的満足だけでなく感情的満足のためである」
「音楽家が大衆的な曲、つまり皆に判り易い曲を人に言われてでなく自ら思い立って書かねばならぬ場合、次のことを肝に銘じておかねばならない。(1)人には判るものしか判らない。(2)人は(a)明確である(特徴がある・造形的である・すっきりしている・はっきりしている)、(b)何度も繰り返される、(c)長すぎない・・・場合しか、曲を理解できない」
「一般に音楽はできるだけ多くの極小・小・中・大部分の反復によって判りやすくされない限り、比較的理解し難いどころか理解することさえできない。理解のための第一条件は結局のところ記憶にある・・・。だから音楽では形が判りにくく覚えにくいものは正しく理解できない。例えば特徴に欠けたもの、曲が複雑な場合ならそこから派生するすべてのもの、そこから生じる全てのものは正しく理解できない」
ジョン・ホワイト(作曲家)
「私が知る限り多くの人達は大抵のクラシック音楽を断片的なフレーズとしてしか聴かず、本当に気に入った箇所が現れるまでじっと待ち、大体はラフマニノフの“パガニーニの主題による狂詩曲”の第十八変奏が終わるとエキサイティングなコーダが現れるまでスイッチを切っている」
スティーブン・マックアダムズ(音楽学者)
「音楽を聴くことは視覚芸術を見たり詩を読む場合と同じように、どのような芸術家によっても参加者側の創造的行為・・・と考えられているし、事実またそのように考えられねばならない。音楽を知覚することは作曲行為の一種であり、意識的・意志的な作曲行為になり得る。だから芸術家に要求されるのは知覚する者に多くの“認識”の可能性を与える形式を生み出すことであり、知覚する者がそのつどその形式から新しく作品を作曲できる、多様な可能性を持つ構造を実際に生み出すことである。それは本質的に創造的たれという要求を知覚につきつける芸術との関わり方を必要とする」
ジョン・ケージ(作曲家)
「何でも音楽として聴けば音楽になる」
スチュアート・ハンプシャー(音楽学者)
「音楽は聴き手が知的能動性をもって聴く時、またその時にのみ芸術として理解される。知的受動性をもつだけで音の表面的な動きにしか注意を払わぬなら、聴き手は音楽を娯楽としてしか扱っていない・・・。自分で作品の構造を追い、自分で自然な想像・音楽的な記憶を働かせることによって聴き手は自己の精神にその印象を刻みつける。作品に合わせて行われる聴き手のこの精神活動が興味深くなければ作品も芸術作品としては失敗である」
ハンスリック(音楽学者)
「美の究極の価値のあるところには感情も直接にまた明瞭に存在するということを私は否定しない。しかしながら普通一般に行われているような感情に何ごとをも訴えるようなやりかたからはただ一つの音楽的法則さえをも導き出すことが出来ないと確信している」
ゴットフリード・ヴェーバー(評論家)
「音芸術は音によって感覚を表現する芸術である」
ズルツァー(評論家)
「音楽は我々の情熱を音によって表現する芸術で、言語において語を通じてこれが行われるのと同様である」
J・モーゼル(評論家)
「音楽とは“一定の感覚を規律化された音によって表現する芸術”であると定義する」
J・N・フォンケル(評論家)
「“音楽における型”を次のごとく解する。“詩や雄弁術についていわれるものと同じである。すなわち、感覚や情熱が自己を表現せんとする際のよりどころとなる種々の異なった種類の表現である”」
ナイトハルト(評論家)
「音楽の終局目的は、あらゆる情緒を単なる音とそのリズムを通じて最優の雄弁家にも劣らぬほどに興奮させることにある」
C・F・ミハエリス(評論家)
「音楽は音の変化によって諸感覚を表現する芸術である。音楽は情緒の言語である」
J・PH・キルンベルガー(評論家)
「旋律的な一章(主題)は感覚の言語に属し、理解が可能であるひとつの文章である。感覚しうる聴者はこの文章により彼にもたらされた情感の状態を感ずることが出来る」
A・アンドレ(評論家)
「音楽とは感覚や情熱を描写し、活動させ、楽しませるところの音を作り出す芸術である」
F・ハント(評論家)
「音楽は感情を表わす。あらゆる感情とあらゆる情感の状態はそれ自身その固有の音とリズムを持ち、したがって音楽においても固有の音とリズムを持つ」
フェルモ・ベルリーニ(評論家)
「音楽は音の手段によって情緒と情熱を表現する芸術である」
フリードリヒ・ティールシュ(評論家)
「音楽とは音の選択と結合によって感情と情感の気分を表現し活動させる芸術である」
ハンスリック(音楽学者)
「まず第一に、音楽は“感情を表現すべきである”という一般に流布した考えに反対するのである。だからといって、このことから私が“音楽の絶対的無感情性を要求する”のだと結論することは出来ない。バラはにおう。しかしバラの“内容”は“香りの表現”ではない。森は影深き涼しさを拡める。しかし森は“影深き涼しさの感情”を“表現する”のではない」
作曲発言集 その3
国安 洋(美学者)
「日常では我々は音楽を聴きたいように聴いている。それは個性的であるとして好ましい聴き方ともみなされている。しかし、これも美的享受とは無縁であるばかりでなく、我々の聴体験にとって決して好ましいことではない。聴きたいように聴くことは、聴きたいようにしか聴けないことを意味しているからである。これは耳の硬化あるいは偏向化であり、耳の暴力になりかねない。
聴体験には多様な聴き方が必要であろう。音楽が違えば聴き方も違うからである。(中略)多様な聴き方は、聴きたい様に聴くことではなく、音楽に即した受容である。ということは、藝術として音楽にはそれに固有の受容の仕方があることを意味している。“まじめな音楽”にはそれに即応した“まじめな受容”の仕方が要求されるのであるが、それが鑑賞にほかならない。そしてこのことは、反面、鑑賞はどの音楽にも対応するものではないことを意味している。つまり、どんな音楽も鑑賞を要求しているわけではない」
クロード・ドビュッシー(作曲家)
「音の建築における一つの和音なるものは、建造物における石材一つと同じ重要性しかもっていない。そしてその和音が本当の値打ちを持つのは、それが占める場所によってであり、旋律のしなやかな曲線に対してその和音が差し出す支柱ゆえなのだ」
ピエール・ブーレーズ(作曲家)
「音楽家は、分析的な内省に身を委ねようと思うや否や、いつだって胡散臭く思われるんだ」
武満 徹(作曲家)
「音楽作品は“音”を媒介として、精神によって捉えられた事実なのであり、その意味で、作品はまったく具体的なのである」
ベラ・バルトーク(作曲家)
「全ての芸術は、先立つ時代の芸術にその根を持っているべきものである。そして根を持つだけでなく、それから育たなければならないのだ」
濱瀬 元彦(ベース演奏・作曲家)
「音楽において最も困難な仕事は基礎理論の確立から実際に音楽を成立させるためのシステムを構築するまでの作業である。極論すれば、ある音楽家の音楽性の高低は、その音楽的システムの優劣の問題であるということができる。(中略)このシステムを人は音楽経験、音楽知識の総体をさすものとしてとらえているはずだ。
そして最も重要なことは個々のシステムの拠って立つ根拠を徹底的に追求し、可能な限り既存の前提を越えた立脚点を獲得することである。音楽的に遠くにいくにはこれしか方法はないのだから。誤解されると困るので書いておくが、私はシステムそのものが音楽であると主張しているのではない。ひとりの音楽家が抱く音的イメージの具体化としてシステムが構築されないのは悲劇であるからだ。方法と作者の情感の交差のない音楽の悲惨さがこの悲劇だ。作者の自我の解体としての音楽などと詭弁を使ってはいけない。音楽とニヒリズムは共存できないのだ。
従って音楽のさらに現実的な困難さは、自分の音的イメージの方向にシステムを作り上げていこうとする欲望の強度の存否の問題となる。音楽表現が一定の水準に達するには優れたシステム(構造)と作者(作曲家、演奏家)の情感のしなやかな交合がなければならない。一人の音楽家のそうしなければ納得できないという欲望の存在以外にはこれを実現する契機はないのである。そして、私達が音楽に聴くものは一人の音楽家の宿命的なこの欲望と彼の資質との格闘の姿なのだ」
オーネット・コールマン(サックス演奏家)
「自分のことであれ他人のことであれ、人がどう感じているかを音で述べる、描写するなんてことはできない。できるのは“ムード”を表現することだ」
フランク・ザッパ(作曲家)
「現代の“和声の教科書”は、カタログという形態で姿を現したこの種の悪魔の化身だな。(中略)長い間“偉大なる芸術”として認められてきた多くの作品は、この“いまいましい慣例”の臭いにまみれている。(中略)ティン・パン・アレーやジャズのスタンダードは II -V- I の花盛りっていう感じだな。俺にとっては、これはいまいましい進行(hateful progression)だよ。(中略)俺にとっては II -V- I は、悪い“白人音楽”のエッセンスだね」
原 博(作曲家)
「ターザンの雄叫びからから発して五つの音の発見、旋法から調性、そして機能する調性、次にあらゆる転調法や和声法が極められた。したがって“次にやって来る”のは不可避的に“機能しない調性”である。ドビュッシーたちのやったことは、ちょうどその位置に当たることだった。これは実際のところ、誠に稀有の鉱脈であった。しかしすぐに掘り尽くされた。この後に続いたのは不可逆性の呪文に金縛りとなった作曲家たちの盲目的な乱掘であった」
キース・ジャレット(ピアノ演奏・作曲家)
「僕が誰かをインプロヴァイザー(即興演奏者)としてどれだけ優れているか、どれだけ本当に知っているかを試すには、まず五度を弾かせるんだ。だからピアニストだったらこう左手で五度を弾く、そして右手は何か重要なことが自分に聴こえてくるまで何も弾かない。四度だと、いったんそのサウンドが聴こえると、すぐみんな右手でこう滅茶苦茶に無意味なことを弾いてしまう傾向がある」
チック・コリア(ピアノ演奏・作曲家)
「きみの夢に奉仕するテクニックを結集させよ。きみの夢に奉仕するようなテクニックを創りだせ」
武満 徹(作曲家)
「音は消える。ちょうど印度の砂絵のように。風が跡形もなく痕跡を消し去る。だが、その不可視の痕跡は、何も無かった前と同じではない。音もそうだ。聴かれ、発音され、そして消える。しかし消えることで、音は、より確かな実在として、再び聴き出されるのだ」
武満 徹(作曲家)
「たぶん、私は、変化しないだろう。なぜなら、私は、音楽を通して、自分を、絶えず、“変えたい”と希求し、だが、その変化への欲望を持続することにおいて、私はけっして変化しない。これからも私は、ある人々にとっては、音楽以前であるような音楽を書き続ける。だが、異なった価値観は対立するものではなく、無数の価値観として偏在するのであり、二元的に括れるものではない。そうした認識に脚(た)てば、批評という行為はきわめて有効であり、社会性をもったものだと解かる。そして、批評というものがもっとも尖鋭に、純粋な形で顕われるのは、創造においてである。創造は批評であり、そのことで、創造はまた、他の批評と出会わなければならない。そして、その時、その“場”に生ずるものこそが本質的な変化というものであり、個人的な作風の変化等は、“変化”にとっては、かならずしも本質的なものではない」
ラルフ・カークパトリック(ハープシコード演奏家)
「大抵の場合バッハは楽器そのものでなく、楽器を超えた何かを示すため鍵盤楽器を用いている。もし彼の四声か五声のフーガを鍵盤楽器の出す音だけに注意して聴くなら聞こえてくるのは・・・むしろ無味乾燥に並べられたさほど面白くもない和音である」
チャイコフスキー(作曲家)
「メロディーは単独で成立するものではなく、いつもそれに付随したハーモニーがあります。音楽のこの二つの要素は、リズムとともに離れがたいものです。どんなメロディックな楽想でも、それ自体の固有のハーモニーがあり、それにふさわしいリズムがあります」
作曲発言集 その4
武満 徹(作曲家)
「自然なものを大事に・・・人間も自然の一部でやっぱり自然・・・自然というよりも、宇宙だよね。もっと宇宙的な仕組み、システムを本来のものに、元々の姿にしとかないと。音楽なんかをやるっていうのは、結局、そういうコスミックなシステムっていうのを恐れる、敬う、尊敬するっていうことだと思うんですよ。まあ、そこまで僕の音楽はいってないけど。その一つの形、形式、音楽はその一つの形。イマジナリーな自然だ」
武満 徹(作曲家)
「音は私たちの感性の受容度に応じて、豊かにも貧しくもなる。私は音を使って作曲をするのではない。私は音と協同するのだ」
オリヴィエ・アラン(批評家)
「和声とは、歴史的にみると、自然の音の世界が提供する材料を経験に基づいて開発し組織化する作業である。他のさまざまな文化活動と同様に、和声も西洋人の努力の賜物としての特徴をそなえている。なぜなら和声とは、自然をとりわけ人間的に利用するために、つまり頭と心の両方によって、もっとも広い意味で精神物理学的に自然を利用するために、知識と実践によって自然を支配しようとする、ひとつの努力に他ならないからである」
大村 哲弥(作曲家)
「聴き手の予測を裏切り続ける構造は、時間芸術にとって不可欠な要素である」
シェーンベルク(作曲家)
「音楽は、なにかを表現する芸術だという考え方は、一般に認められている。しかし、チェスはお話を語らないし、数学は感情を呼び起こさない。これと同じように、純美学的な見地からいえば、音楽は音楽以外のものを表現しないのである。しかし、心理学的な立場から見れば、われわれの知的、感情的連想の能力には限度というものはなく、むしろ、そうした連想を拒絶する能力のほうに限りがある。したがって、どんな平凡なものでも音楽的連想を呼び覚ますことができ、また反対に、音楽は、音楽以外の事物との連想を呼び起こすことが出来るのである」
テオドール・アドルノ(音楽社会学者)
「音楽がすべての芸術と同じく、かつて偉大な哲学によって“理念の感覚的な現われ”と名づけられたものであるとするなら、音楽教育はまず音楽的な想像力を促進し、また音楽を心の中の耳で具体的かつ正確に、まるで生々しくそこでそれが鳴っているかのように想像(表象)するすべを生徒達に教えねばなるまい。音楽の正確な想像は、およそ音楽の生命とも呼んでいい精神性と感覚性の間の緊張が解決されるための決定的な条件である。
教育はもちろん現実の感覚的な現象を扱うこととそれを造り出すことから始めねばならない。しかし、単に音楽を作ることが、素人細工じみた行為が手段から目的になってしまうと、音楽教育はその目標とは正反対の方向をたどることになる。新しい意味で劣等な音楽、つまり盲滅法の音楽行為への衝動を満足させることを目指した音楽の偏愛という現象は、音楽教育のそのような狙いの転倒の表われである」