ティグラン・ハマシアン『The Poet』の静謐な融合の美学

音楽レビュー

音楽シーンにおいてティグラン・ハマシアン(Tigran Hamasyan)の名は、ジャンルの境界を軽やかに越えた音楽的語法を創造する革新者として知られています。アルメニアの民族音楽、高度なジャズの即興性、クラシック音楽の構造美、そしてプログレッシブ・ロックの衝動。これら性質の異なる要素を、彼は驚くべき精度で一つの芸術作品へと昇華させます。

ハマシアンの作品と初めて出会ったのは、2013年のアルバム『Shadow Theater』の幕開けを飾る楽曲である「The Poet」を、SNS上で偶然耳にしたときでした。民族音楽を強く意識させるメロディーが、繊細かつ確信に満ちたハーモニーに乗って奏でられるその音楽世界に、すぐさま虜になりました。

この記事では、そんな印象的な楽曲である「The Poet」を取り上げ、その音楽的魅力を語っていきます。

ティグラン・ハマシアンの音楽的出自と融合の美学

まずは、ハマシアンのこれまでと音楽哲学の一端について触れておきます。

ハマシアンの音楽世界の広がりは、その多様な出自に根差していると言えます。幼少期に父親の影響でレッド・ツェッペリンやブラック・サバスといったロックに親しむ一方、叔父からはジャズの手ほどきを受け、さらにはクラシック音楽の教育も受けてきました。この多岐にわたる音楽体験が、彼の柔軟な芸術的基盤を形成したと言えるでしょう。

特に注目すべきは、14歳の時に自らのルーツであるアルメニア民族音楽と出会った点です。その探求は、ヤン・ガルバレクやキース・ジャレットといった西洋のジャズアーティストが民族音楽の要素を取り入れていることに触発された、知的で意識的なプロセスでした。ハマシアンはこの出会い以降、アルメニアの伝統音楽を深く研究し、その旋律やリズム構造を自らの作曲語法の中核に据えることになります。

ハマシアンは「何世紀も前から受け継がれてきた歌をアレンジするならば、然るべき敬意をもって扱わなければならない」と語っています。この哲学が、彼の音楽的融合を、単なる表面的な借用や異国情緒の演出とは一線を画すものにしています。彼の音楽におけるアルメニアの要素は、単なる装飾ではなく、作品全体の構造と感情の根幹を成す、不可欠な柱として機能していると言えるでしょう。

唯一無二の音響世界:リズム、ハーモニー、構造

ハマシアンを同時代のピアニスト/作曲家から際立たせているのは、その唯一無二の「融合の美学」とでも言うべきスタイルと技術的革新性でしょう。

リズムの革新性

ハマシアンの音楽は、4/4拍子という一般的な枠組みから逸脱し、5/4や9/8、さらには21拍子といった変拍子を多用します。そのリズムアプローチはしばしば「リフベース」であり、伝統的なジャズのスウィング感よりも、むしろロックバンドの構造に近いものと言えます。

特に、プログレッシブ・メタルの一ジャンルである「ジェント」に見られるような、角張ったポリリズミックな攻撃性をピアノで体現する手法は彼の大きな特徴であり、その作品が「角ばったジェント風ジャズ」と評される理由でもあります。

ハーモニーとメロディの特質

ハマシアンの即興演奏や作曲には、中東や南西アジアの伝統に由来する音階に基づく装飾が豊かに織り込まれています。アルメニア民族音楽特有の音程の跳躍や旋律の輪郭は、彼の音楽に独特のモーダルな(旋法的な)風味と物語性を与えています。

複雑なハーモニー構造の中にあっても、常に「美しいメロディを届ける」という目的が一貫していると考えられ、知的な刺激と情動的な訴求力が見事に両立されていると言えるでしょう。

『The Poet』の特徴と魅力

アルバム『Shadow Theater』のオープニングを飾る「The Poet」は、こう言ってよければ、ハマシアンの芸術性を凝縮したマニフェストなのではないでしょうか。

この楽曲は、ハマシアンが重視する「物語性」を色濃く反映しているように感じられます。タイトルが示す通り、詩的で内省的な雰囲気が全体を支配し、聴き手を静謐な思索の世界へと誘います。彼の特徴である複雑なリズム構造はこの曲では抑制された形で用いられ、むしろ繊細なダイナミクスの変化とテクスチャーの綾を際立たせる結果につながっていると思われます。

冒頭で寂しげに響くホンキートンク的な音色は、穏やかさと厳しい温もりが同居するこの曲のムードを象徴的に示し、一気にハマシアンの世界へと引き込んでいきます。そしてアルメニア音楽に由来するメロディックな輪郭が、彼自身の抑制されたボーカルとピアノによって紡がれ、深い情感を生み出すのです。

明瞭で確固とした和音が次々と連なりながら、ときに息苦しさを覚えるほどの感傷を伴いながら曲は展開し進んでいきます。そこでは彼の卓越した技術と豊かな音楽的語彙が遺憾なく発揮されており、全ての音は、楽曲全体の物語を語るために細心の注意を払って配置されています。

こうして「The Poet」は、楽曲単体としての魅力でリスナーの心をつかむに留まらず、ハマシアンの深遠な音楽世界へと導く「アルバムの見事な導入」としての役割を果たしているのです。

ハマシアンは、そのキャリアを通じて数々の国際的な賞を受賞し、ハービー・ハンコックやブラッド・メルドーといった巨匠たちからも高い評価を得てきました。これは、彼の音楽が持つ圧倒的な独創性と芸術的完成度の客観的な証明と言えるでしょう。

「The Poet」は、そうした評価を裏付ける、静謐でありながらも極めて力強い作品だと思います。技巧的な複雑さを内包しつつ、それを超えた普遍的な感情的共鳴を呼び起こす力を持っており、私自身その力を身をもって体験しました。

この楽曲、そしてティグラン・ハマシアンというアーティストの存在は、文化の融合がいかにして新たな芸術的地平を切り拓くことができるかを示す、現代における最も説得力のある実例の一つと言えるのではないでしょうか。彼の音楽は、ジャンルの境界線が無意味になる地点において、ひたすら純粋な「物語」としてリスナーの心に響き渡るのです。

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プロフィール
Masaharu      

ジャズとクラシックをベースに、実験的なクロスオーバー音楽を作曲。舞台音楽やゲーム音楽の制作経験を活かし、物語性のある音楽を追求。