続・作曲を見つめる~なぜ音楽による共感が可能なのか

エッセイ

(初出1999年11月12日)

以前のコラム『作曲を見つめる』では、作曲という行為の「運動そのもの」についてモデル化を試みましたが、今回の「続・作曲を見つめる」ではその運動を取り巻く環境や現象の捉え方について考え、そこからまた作曲という行為へフィードバックさせてみようと思います。言うなれば「何故音楽による共感が可能なのか、音楽の特殊性はどこにあるのか」という疑問について考えてみようということです。

別のコラムでもお話ししましたが、我々作曲者は音楽学者である前に音楽創作の実践者です。極端に言えば、論理的妥当性や科学的検証から自由な立場から、作曲について考えることが許されると思います。何故なら、科学や学問への貢献の前に、純粋に作り手が望む音楽を創り出すこと(創作に没入すること)に主眼があるからです。当人の作曲行為にとってどの様な意味があるのか、という点に興味があるのだと言えます。

その意味においては、この『続・作曲を見つめる』の目的は「”音楽によって共感できる”ということを肯定する物語を創ること」だと言えると思います。問題は、その物語を自分の内に引き受け、いかに音楽を生み出して行くかでしょう。常に創作者としての行為と在り方が問われるのだと思います。

第1章:音と意味との関係

それでは本題に入ります。一般に作曲というのは音楽を創ることだと言えるのですが、そこから「音楽とは何か」と問い始めると、途端に思索の迷路に迷い込んでしまいます。ですので、ここではそのことを保留し、「音楽体験」にスポットを当てることから始めることにします。音楽を聴くことを続けることによって得てきた経験をスタート地点にし、そこから音楽の奥底へ降りて行ければと思っています。

ここでいう音楽とは隠喩としての音楽(例えば「森を吹き抜ける風の音は自然の音楽だ」等)は含まず、具体的に「あなたの創っているものが音楽」であるとします。そして、便宜上「器楽曲」に限定し、歌は含めないこととしておきます。

また、「どこからどこまでが作曲なのか」といった創作の境界領域の問題にも触れないことにします。この点を考慮し出すと、いわゆる「ジョン・ケージ問題」に囚われてしまい、作曲行為そのものへの懐疑に繋がり、混乱をきたす恐れを感じるからです。ジョン・ケージは、音楽の本質的問いを白日の元にさらしたという点において、いずれ対面する相手だと思いますが、今回は、私や皆さんの日頃の「音楽体験」を立脚点として、経験との照らし合わせを大切に考えて行きたいと思います。

さて、これから考えを進めて行くに際して、音楽体験の要である「音楽を聴く」ということについて、ある程度考えておく必要があると思います。音楽の作り手も聞き手も、音楽に関わる人々は皆、この「聴く」ことを抜きにしては始まらないからです。そこで、音楽もその他の音も同じ「音」だとした上で、まず「音楽だと感じる音」について考えてみようと思います。

音楽は物理的な見方をすれば音から成り立っていると言える訳ですが、人はどんな音を聞いた時に音楽だと感じるのでしょうか。人は音楽を聴くときには音を聞いているだけなのでしょうか。私達は日常様々な音を耳にしていますが、「単なる音」と「音楽だと感じる音」とはどの様に区別しているのでしょうか。

「音楽だと感じる音」の特徴とは何でしょうか。今までの経験による素朴な感想として、例えば、それを耳にすると心動かされるものだと言えます。そこに込められた何かがこちらに伝わってくるものだ、とも言えるでしょう。

音楽を聴くときには、積極的にそこから何かを感じ取ろうとしたり、音楽から自然に伝わってくるものを感じたりという風なことをすると思います。そういった経験から、確かに音楽には何かが在るように思われるのです。そこで、音楽のことを「音で何らかの意味を伝える、言葉のようなものだ」とする考えが生まれてきます。

しかし、音を通じて伝えられる意味には、次の様なものがすでに存在していることに気付きます。それは「語音(発音された言葉)」や「日常音(具体音)」を通じてのものです。

言葉はそのものずばり、意味を伝える為のものです。「私は楽しい」と言えば、聞き手には「私は楽しい」という意味を具体的に伝えられます。日常音も、例えばガラスが割れる音が示す様に、「或るガラスが割れたこと」という具体的な意味を伝えます。

これら音にはある共通する特徴があります。それは、意味を指し示す側(鳴り響く音)と意味それ自体(伝えたい概念、ガラスの存在)が別々の存在としてあり、かつ、それらが結び付いているという点です。

「私は楽しい」という言葉に「楽しさ」という気持ちが含まれているのではなく、その言葉は「私」という発言者に「楽しさ」という気持ちが存在することを指し示していると考えられるわけです。これは、「私は楽しい」と紙の上に書かれた物を想像すると解かりやすいと思います。「楽しい」のは「私」なのであって、その「文章」それ自体ではないのですから。この様に、意味を指し示す言葉と意味(気持ち)それ自体は別だということです。

このことを別の視点からまとめると、人は語音と日常音を、具体的な対象が存在することの「間接証明」として耳にしている、という風に言えると思います。

つまりガラスの割れる音は、その音を耳にした人に対して「ガラスが割れたこと」を間接的に証明しています。そして気持ちを表す言葉は、その言葉を耳にした人に対して「発言者の気持ちの在り様」という「伝えたい概念」の存在を間接的に証明しています。そして、そのとき人は、音を聞くことを「手段」にして、音以外の「何か」を理解しようとしているのだと言えます。

ということは、語音や日常音を聞くこととは、「具体的な対象」という、音の世界以外に存在する「何か」を知るための手段だということです。

次は、この様な語音や日常音の特徴を踏まえ、私達が日頃音楽だと感じている音について考えてみたいと思います。

第2章:音楽だと感じる音

「語音」や「日常音」の特徴がある程度解かったところで、次に、日頃音楽だと感じている音について見ていきたいと思います。

まず、ピアノの音が「ポーン」とひとつ鳴っただけだと、この時点では「ピアノが鳴ったこと」や「ピアノがそこに在ること」を指し示す具体音(単なる楽音)と考えられ、音楽とは感じないでしょう。この一音は誰かが間違って触れて出た音なのかもしれませんし、鍵盤の上に物を落としてしまったのかもしれません。

ここまでは「日常音」と同じです。その音を耳にした人は、「何かが鍵盤の上に落ちた」と思って慌ててピアノの方を向くかもしれませんし、「誰かがいたずらをしているな」と思うのかもしれません。

しかし、その音が連続するとそこには「音の関係」が生まれます。つまり、今鳴っている音と、その前に鳴った音と、そのまた前に鳴った音との関係、というものが生まれる訳です。そして、それがどんどん連続して聞き手の耳に流れ込んで行きます。そうなってくると、「聞こえている音はピアノが鳴っている事実を指し示している」ということとは違う地平において、「聞こえている音は音楽だ」と意識し出すことを経験上認めざるを得なくなります。

この様に、「音楽だと感じる音」には「関係を持つ音の連続」という特徴が在る様に思われます。ちなみにこの例の場合、「音楽だと感じる」ピアノによる旋律とは、ある関係を持ったピアノの音の連続のことだと言えます。

ところが、ここまで考えてみると再びあることに気付きます。それは「言葉(語音)も関係を持った音の連続ではないのか」ということです。確かに、語音は色々な発音を組み合わせた、関係を持った音の連続だと言えるようです。

そういう訳で、ここで「語音」と「音楽だと感じる音」の違いを考えておきたいと思います。まず「語音」は先にも述べました様に、その意味するものを指し示す音であり、その意味は具体的で、発言者の込めた意味は誤解無く聞き手に伝えられることを前提としています。

「音楽だと感じる音」の場合はどうでしょうか。この場合の例としては、器楽曲と思想の関係が挙げられるでしょう。ある思想を言葉で伝える様に、音楽で具体的に伝えられるでしょうか。その曲を聴いて思想を理解できるでしょうか。

何よりも、その音楽の意味する先には、思想的な具体的意味が間違い無くあるのでしょうか。その思想的意味を具体的に「理解」するから、その曲に感動するのでしょうか。聴き終わったとき、聞き手の内にその思想という具体的な内容は届くのでしょうか。その思想というバック・グラウンドを知らずに曲だけを聴いたならば、なおのこと、そこから「思想を意味する具体的なもの」を得ることは出来ないのではないでしょうか。それとも聴き取れない方がいけないのでしょうか。しかし、耳にした人のほとんど全てが理解できる語音と比べ、その伝達度が圧倒的に低いことは事実でしょう。

音楽にそういったものを込めようとすることは自由です。しかし、言葉の役割と同じ様に音楽を利用できるとは思えないのです。今までの経験上、この点が「語音」と「音楽だと感じる音」との違いのひとつだと言えます。

それから、語音を聞く時には、その語音(言葉)の指し示す別の具体的な意味を知ろうとしますが、このときには、ひとりの発言者の語音の連続を聞くことになります。しかし、「音楽だと感じる音」を聞く時には、様々な音の関係が一度に耳に入る状況になります。

ある音楽(曲)を構成している様々な要素(メロディ、リズム、ハーモニー、音色変化等)というものは、それ単独で聴いても全体として聴いても、それ相応に何の混乱も無く「音楽だと感じる音」として聴くことが出来、「何か」を感じ取ることが出来るでしょう。フレーズ・サンプリングを用いたコラージュ・ミュージックでは、複数の曲を並置したものすらありますが、これらも音楽だと感じています。

しかし、語音で同様のことをすると、聖徳太子でもない限りその意味を理解する事は無理でしょう。この様に、語音は常に一系列の音の関係として意味を伝える事しか出来ないのですが、「音楽だと感じる音」においてはその様な制約や問題とは無縁です。この点も大きな違いと言えるでしょう。

他にも違いがあります。語音の場合、同じ意味を違った言い表し方で表現できますし、別の言語に翻訳することも出来ます。これは、意味がその外部にあるからこそ可能な事だと言えます。ところが「旋律」においては、実際にそのようなことをしようとすると、はたと考え込んでしまうことになります。

ここに、或る伴奏に伴われた「ソ・ラ・シ・ド」という旋律があったとして、これを「ラ・シ・ソ・ド」に作り変えたとします。しかしその時、「元の旋律を、同じ意味を持つ別の旋律に翻訳した」と感じているでしょうか。作り変えた時点で、元の旋律は消えて無くなり、まったく別の新たな旋律に置き換えたのだと感じるものではないでしょうか。

つまり、旋律の個別性を重要視しているのではないかということです。ある長い旋律の中のただひとつの音を、「ド」にしようか「ミ」にしようかと悩むのは、その一音で旋律の表情、作り手にとっての意味が違ってくるということを、身をもって経験しているからではないでしょうか。つまり、代替が利かない唯一的なものが「音楽だと感じる音」にはあるのではないかと思うのです(いわゆる変奏曲における主題と変奏の関係も、翻訳や置換ではなく変化と言えるのではないでしょうか)。

そもそも、意味するものが具体的にあってその表現を語音でするならば、曖昧なままの色々な言い回しで十分に通じることは、日頃の話し言葉の中で経験されていることと思います。極端な例ですが、ある事務所において「時間を見つけて手紙を出しておいて」という語音も、「手紙、あれな時にあれしておいて」も、そこに或る慣習が成り立っていれば、後者のような語音を用いても意味が通じてしまうものです。

こうして見てみると、人は「音楽だと感じる音」を聴くことによって「何か」を感じ取っているのだとは思いますが、その「何か」とは音の世界の外部に具体的に在るのではない、という気がしてきます。ひとまず言うなれば「音楽だと感じる音に内在する何かを聴くために聞く」といったところでしょうか。

「語音・日常音」における「何か」とは具体的なものであり、かつ、音の世界以外のところにありました。それは物質であったり、伝えたい概念であったりしました。ですが「音楽だと感じる音」における「何か」とは、その音自身に含まれ顕わされている様に思えます。

例えば、これらの音を擬人化してみるならば、「日常音」は「ガラスが割れたから私(音)はここに居ます。あなたに私が聞こえるのはガラスが割れたからです」と言うでしょうし、「語音」は音そのものが発言者の伝えたい概念を示していますから、「私の伝えたいことを理解して下さい」と言うでしょう。そして「音楽だと感じる音」は「私自身を聴いてください」とだけ言うのではないでしょうか。

ここまでに見てきた様に、「音楽だと感じる音」と「語音・日常音」との違いとその特徴が、ある程度見えてきたのではないかと思います。そこでこれからは「音楽だと感じる音」すなわち、「その伝えようとする”何か”が音の外部には無いと思われる、聴くために聴く、関係を持つ音の連続」のことを「音楽音」と呼ぶことにします。これは「楽音」「噪音」「騒音」といった音響的な区別ではなく、音楽として鳴り響く音、つまり「音楽を音楽足らしめている音」と考えてください。具体的には、大きなものでは「鳴り響く曲全体」でしょうし、小さなものでは「リズムや旋律や和音を感じさせる断片」などとなるでしょう。

注意したいのは、楽音(楽器の音)そのものは音楽音では無いということです。楽音がリズムを感じさせるような時間変化をしたり、複数の楽音が関係を持って連続することによって、初めて「音楽音」と呼ぶということです。

これは楽音に限らず、例えば「手を叩く音」にも当てはまるでしょう。一回だけ「パン」と手を叩いただけだと「手を叩いた」という意味を伝えるだけです。そこから社会慣習によっては「人を呼んでいる」意味等に解釈されることもあるでしょう。ですが、この「パン」と叩く音が連続し、聞き手がそこに「リズムの断片」を認め出すと、手拍子──つまり音楽を感じ出すのだと言えます。そして「手を叩く音」のリズムが伝えようとする「何か」は、その音そのものに在るのではないか、ということです。

これは「騒音音楽」という言葉からも想像できるように、音単体では騒音であっても音同士の関係によっては音楽に聞こえることを表しています。逆に、楽音として認められているヴァイオリンの音でも、のこぎりの様にこするだけでは騒音だと言えるのではないでしょうか。このあたりも、「音楽音」について音響的な区別を特にしていない理由です。

それでは次は、「音楽音」がその内に持っていると考えられる意味、その「何か」について考え、「音楽を聴く」ということに迫ってみようと思います。

【補足】この章では「音楽音」は音の関係性によって感得される──つまり単音では成立しないという論旨になっています。

しかし実際には、コンテクストによっては単音でも音楽を感じる可能性が生じます。その例としては、コンサート会場での立ち会いや、演奏の身振りを伴う発音といったケースが挙げられます。つまり「これから鳴り響く音は音楽です」という文脈的な前提が共有されている場や関係性においては、あらゆる単音が音楽音として感得される可能性があると思われます。

これらは、音楽的なコンテクストによって聞き手の音楽的記憶が喚起・連想される結果として音楽として感得され、その単音を聞き手は音楽音として認知するのだと考えられます。

また、単音であっても、その一音の持続の中に聞き手がリズムを感得できた場合、それもまた音楽音として認知され得る可能性があると考えられます。

このコラムではさらに上記のような論点に取り組む必要性もありますが、ここでは「”音楽によって共感できる”ということを肯定する物語を創ること」という作曲者としての趣旨を踏まえ、深掘りせずにとどめておきます。

第3章:音楽音が伝えるもの

私達が音楽だと感じている音が、日頃耳にする語音や日常音とはその性質、在り方が違うことを見てきました。そしてその音を「音楽音」と呼ぶことにし、ここではその意味するものについて考え、「音楽を聴く」ことに迫ってみようと思います。

すると次の様な意見に出会うことになります──。

「”音楽音”は、大きく見れば音楽作品それ自体を指し示していると考えられるのだから、その意味は作曲者が込めようとした”感情”や”思いの丈”といったものではないのか。そして、それが伝わるかどうかは別問題なのではないか。さらに言うならば、実は”音楽音”自体にはきっかけ以上の意味など無く、作り手と聞き手の内でそれぞれ勝手に意味を作り出し、その接点を共有しているだけなのではないのか。つまり、作り手から聞き手へ何かが伝わっているというのは、実は共同幻想なのではないのか」

──これは次の様なことを指しています。つまり「音楽音」を耳にした時の聞き手の内においては、彼の今までの音楽体験の記憶が「音楽音」を聴くことによって引き出され、その「音楽音」に対し自らが意味を与えているということです。例えば、ある旋律を耳にしたとき「悲しいメロディーだ」という感想を持つということは、その人の今までの感情の記憶が、その旋律を聴くことをきっかけとして引き出されて来たことを表わしているのではないか、ということです。

ここでいう音楽体験とは、例えば、悲しい気持ちのときに耳にした音楽の記憶といったことの積み重ねを指します。具体的な例として、ドラマの悲しい出来事の場面で耳にした音楽の記憶がそれにあたります。他に、音楽とまったく関係の無い感情の記憶も含まれると思います。人が聞けば滑稽だと感じる音楽でも、ある人にとっては辛い思い出と結び付いていて、耳にするだけで涙が出てくることもあるということです。ですから、音楽を耳にしたときに条件反射的に心に表れる感情のことを、その音楽が伝えようとする「何か」だとしている訳です。

このような見解は、「聞き手の数だけ感想がある」「人によって音楽の捉え方は様々だ」という意見の根拠でもあります。つまり「音楽音」の意味とは、それを耳にした人それぞれがその内に作り出す感情のことであり、だから「音楽音そのもの」を通して作り手から聞き手に伝わる「何か」というものは無いのだ──という意見です。

しかし、聞き手の内に意味を作り出すきっかけとなった「音楽音」という存在そのものに、何かしらの働きがあるからこそ、そこから聞き手は感情という意味を持ち得るに至ったのだと考えられないでしょうか。つまり聞き手の内に生まれた心の動きは、感情の記憶からではなく、そもそも「音楽音」を聴くことによって生まれたのではないのか、ということです。聞き手の心を動かす根源的な力が「音楽音という現象そのもの」にあるとは言えないでしょうか。

何故なら、今までの考察によって「音楽音」が他の音とはその成り立ちや在り方が違うのではないか、ということを理解し感じているからです。ですから「音楽音」が、「語音」や「日常音」と違ってその意味するものが具体的に存在しないことを理由に、その音自体には伝えるものが無くて無意味(ただの音)だとする訳にはいかないでしょう。

また今までの経験上、「音楽音」を聴いているその瞬間には、その音(音楽)でなければ味わえない、音の個別性のようなものを感じていると思います。それは、聴くことによる感想というものではなく、聴いているその瞬間ごとにその現実の音そのものから感じられる「その音でなくてはならない」という個別性です。上述の「旋律の翻訳」に関しての考えと同じことです。このことからも、「その音(音楽)でなければならない」という個別性の大切さを思うのです。これは、「音楽音そのもの」には他の音には無い働きが在り、「音楽音」は何かを伝えようとしている、という考えに繋がります。

それに、「音楽音」の意味を、人それぞれがその内に作り出す感情のことだとすると、作曲者が器楽曲によって伝えられることは基本的に聞き手に依存した感情だけということになり、感情に関する文化的慣習のノウハウ集めに汲々とすることになるのかもしれません。しかも、それは正確に言うと伝えているのではなく、条件反射の予測をして、そのきっかけを仕込むような作曲をしているのだと言えます。

これは、ある種の音楽においては当然の手法とも呼べるものですが、それが全てだと言われると、作曲に魅力を感じなくなるのは私だけではないと思います。せめて自分の創る音楽に何かを込められ、それが伝わっていく可能性があるのだと思えるようにしたいと考えます。そこで、なんとか「音楽音そのもの」に意味を見出し、突破口としたいところです。「きっかけ」であるにしても、大きな意味を持つきっかけであって欲しいと思うのです。

その「音楽音そのもの」について、音楽学者のツッカーカンドルは以下のような興味深い考察を行っていますので引用してみます。

音楽音とは特殊な「力動的質(dynamic quality)」をもつ音である。そして、この「力動的質」が音の音楽的性質にほかならない。

「力動的質」は、我々の内なる世界の心的あるいは精神的出来事に属するものでもなければ、外の世界の物理的現象でもない。これまで外界は物質の世界、物理的出来事の世界とみなされ、この物質界に根拠を持たない現象は、我々の内的世界にその源をもつと考えられてきた。また、そのいずれでもない場合には、それは神の仕業と解された。

だが、外界には物質、物理的出来事ばかりでなく、それを超越した力という存在がある。音楽音とはその力の現象なのである。したがって、我々の外界の知覚も、物や物理的現象に限られるものではない。我々の感覚のうちの少なくとも一つは、力という存在を直接知覚する能力をもつ。それが「聴」である。

音楽音に内在する意味を「力動的質」とみなし、それを聴によってのみ直接に感得される力そのものの現われと考える。それ故、音楽を音楽として聴くということは、我々が日常生活の中で出会っている世界(つまり、物理的出来事の世界としての外界、および内的世界)から際立っている、極めて独自の出来事の体験であることを意味している。
国安 洋 著『音楽美学入門』春秋社 より)

この様に、「音楽音そのもの」について考えるにあたって大変貴重な示唆を与えてくれていると思います。特に視覚や触覚、嗅覚といった感覚器官が、明るさや温度やにおい等の物理的出来事を感じ取る様に、聴覚は音独自の《力》を聴き取るという考えは、日頃音楽に対して行っている価値判断以前の視点を提供しているという点において重要に感じます。

つまり、「ある音を聞いた時にそれを音楽だと感じるということは、その音の力動的質を”聴”によって体験しているのであり、その様な力を現わしている音を音楽音だとしよう」という訳です。そうなると「聴くために聞く」とは、音そのものの《力動的質》を聞き取ろうとすることだと捉え直すことが出来るでしょう。

具体的な例として、ある曲の中でドミナント・モーションを感じるという音楽体験は、曲全体という《力》の中の、ある《力》だけを聴き取ることだと言えると思います。ドミナント・モーションだと感じる「あの感覚」とは、その中の「ある種類の力」というものを聴き取ることによって得られるのだと考えられるわけです。そして、その《力》は全体の内の部分であり、かつ、全体の《力》のために欠かせないものだと言えます。ちなみに、その「感覚」がどのような価値を持つのかは別問題だということです。

このことを踏まえて先程の意見を見直すと、「音楽音」自体には伝えようとする「何か」があり、それは《力動的質》という、聴くことによってのみ感じ取れるものを通しての体験のことだ、となります。これを聴き取るからこそ、その音を音楽だと感じ、また、そこから過去の音楽経験との照らし合わせも始まるのだと考えられます。

そして、さらに「音楽音」には《力動的質》の体験を媒介とした作用があるのではないかと考えられ、その作用によって共感が生まれているのではないかと言えるようになります。

つまり《力動的質》の体験ということを媒介として、双方の間に共感が生まれているのではないか、ということが考えられる様になってきます。作り手である作曲者にとっては、その体験について思い描くことが興味深いポイントになってくるのではないでしょうか。

しかも《力動的質》の体験を通して、作り手と聞き手の間に幻想ではない本当の「共感」が生まれる可能性が見えてくる以上、単なる共同幻想だという意見は無視できるものになってくると思います。この様に、作曲者は自らの音楽を通して聞き手と共感できるという、ある意味当たり前のことが再確認できるのではないでしょうか。

さて、ここまでご覧の様に、まずは「音」と、その意味するものとの関係を手掛かりにして、音楽体験の基本である「聴く」ということについて考え、それにより「音楽だと感じる音」すなわち「音楽音」を聴くという体験は、《力動的質》の体験という音楽独自の出来事の体験のことなのではないか、と想定できるところまで来ました。そしてその体験を通じて「共感」が生まれるのではないかと考え始めている訳です。次はそれらを足がかりに「作曲によって伝えられること」について考えてみます。

第4章:作曲によって伝えられること

これまでに行ってきた考察をもとに、作曲によって伝えられることについて考えてみます。伝えられることを考えると言っても、その全体を具体的に捉えようということではありません。音楽という広大な世界の中のほんの一部を、これまでのことから想定してみようという訳です。

ここでもう一度、耳にして音楽だと感じる音についての素朴な感想を思い出してみます。

「音楽だと感じる音」の特徴とは何でしょうか。今までの経験による素朴な感想として、例えば、それを耳にすると心動かされるものだと言えます。そこに込められた何かがこちらに伝わってくるものだ、とも言えるでしょう。

音楽を聴くときには、積極的にそこから何かを感じ取ろうとしたり、音楽から自然に伝わってくるものを感じたりという風なことをすると思います。そういった経験から、確かに音楽には何かが在るように思われるのです。
(第1章:音と意味との関係~より)

これを改めて考えてみると、また違った感想を持つことが出来ます。確かに音楽には他の、日頃耳にする音とは違う「何か」が在るように思います。そして今、その何かのひとつとして、《力動的質》の体験という、音楽の世界ならではの体験を想定することが出来ると思います。

普段、音楽について語られるときには、共感の媒介者という視点は考慮されていないのではないかと思います。それこそ「音楽はただの音だ」といった単なる音響としての視点か、「音楽を通して共感する」「音楽で共感する」という、漠然とした言われ方をすることが多いのではないでしょうか。

そこでこのコラムにおいては、「何故共感が可能なのか、音楽の特殊性はどこにあるのか」という疑問に対して考えを進めている訳です。そして、音として見たときの「音楽だと感じる音」の特徴を考えることに始まり、「音楽音」を想定し、その「音楽音」の伝えようとする「何か」とは《力動的質》の体験のことではないかと考え、その体験を媒介者として共感が生まれているのではないか、というところまで来た訳です。

そうなると次は、「音楽音」によって生まれると考えられる肝心の「共感」とは何なのかについて、これから考えていく必要があります。そしてそのことが、作曲によって伝えられるものを考えることに繋がって行くのではないかと思います。

さて、ある音楽音を聴くことによって何かしらの感情を持つに至る経験というのは、誰もが心当たりの有ることだと思います。そしてその感情とは、音楽音の力動的質の体験を通じて呼び起こされた「感情の記憶」であろうと仮定しています。さらに言えば、その感情とは音楽音によって呼び起こされた効果という風に捉えられるでしょう。

では音楽音によって喚起される感情と、日常生活の中での様々な感情とは同じものなのでしょうか。

日常生活の中で経験する喜怒哀楽の感情とは、何かの出来事に出会った時に生まれると思います。自分の望みが適ったときや、親しい人が居なくなったり、人から被害を被ったとき等、そんな現実の出来事に遭遇したとき、人は生き生きとした感情を持つと思います。つまり、これらの感情は人の受動的反応であり、出来事やものごとの属性としての側面があると言えないでしょうか。

ただ「楽しい」という感情を思い起こすことは出来ず、「楽しかった何々のこと」を通して楽しいという感情が思い起こされるのでないでしょうか。「楽しい気持ちになろう」と思うなら、楽しかった思い出を想像の中で体験しなおすことでしょう。そのとき、常に具体的な出来事が関わっていることに気付かれるのではないでしょうか。

しかも、この様に受動的反応として持つ感情というのは、ある程度個別的なものであり、ある出来事に対する感情とは大抵、人によって様々なはずです。人として誰もが悲しむ出来事は有りますが、場合によっては人との永遠の別れですら、それを悲しみではなく喜びとして感じるという例があります。

さて、この様な感情の記憶が、音楽音を聴くことをきっかけとして聞き手の内に呼び起こされるとしたら、確かに、聞き手の数だけ感想があるのだと言えそうです。ここで気を付けたいのが、日常の中での感情というのは、リアルな今という現実に対する感情であるのに対し、音楽音による感情とは、あくまで記憶としての感情が呼び起こされている、としていることです。

この部分が、音楽音を聴いたときの感情と日常生活の中での感情との違いですが、その成り立ちは「ある出来事やものごとに結びついた受動的反応」という点では同じだと言えます。しかし聞き手にとっては、その感情が記憶なのか現実の感情なのか区別できていない、もしくは区別できないのではないか、という疑問が残りますので、この「記憶としての感情」については再考の余地があるところだと思います。

感情とは、その人の体験してきたことと密接に結び付き、しかもある程度に個別的なものだと考えられる訳ですが、では音楽音を通じて、この具体的な体験と結びついた感情というものを、聞き手にその通りに伝えられるのでしょうか。聞き手にとっては、音楽から伝わってきたと感じている感情とは、やはり「きっかけ」に対する反応として、聞き手の内の感情の記憶(もしくは感情そのもの)が呼び起こされたものと考えるのが妥当ではないかと思います。

もしそうであるならば、作り手が自らの具体的体験を通じて得た感情をその作品に込めたと思っても、それがその様には聞き手に伝わらないのではないか、ということになってしまいます。では共感の根拠が感情に無いのだとしたら、一体どこにあるのでしょうか。

感情とは具体的な出来事などと結び付いたものだと考えられます。そして、今という現実に対して持ち得るものです。ですが、感情というものだけがリアルな心の動きなのでしょうか。感情の他にも、その当人にも理解できない様な、つまり、言葉にならない、掴み取れない、自分で自分の心が解からなくなるような、そんな不可解な、しかしリアルな「気分」というものがあるのではないでしょうか。

この「気分」というのは、何かしらの出来事によって呼び起こされるというよりも、そういう状態になってしまうもの、何のきっかけもなく心に起こるものだと思います。まさに「気分的」「気分屋」という言葉が表す様に、掴み所のない心の動きだと言えます。そしてその気分自体は、何か具体的な出来事やものごととの明確な結び付きは無いのではないでしょうか。何故こんな気分なのか自分でも解からない、という様な経験は誰にでも有ると思います。この「気分」というものは、没対象的な、真に主観的な心の動きだと考えられないでしょうか。

そこで、次の様な仮説を立ててみます。音楽音を聴いている時のリアルな体験とは、感情(の記憶)を呼び起こされることではなく、没対象的な真に主観的な「気分」と呼ぶべき心の状態になることではないでしょうか。それは感情とは違い、喜怒哀楽の特殊な色付けを持たず、強いて言えば、精神的変容(高揚や沈鬱、静謐、神秘など)としか言い様の無いものです。それが「気分」です。

音楽音を耳にしたとき、聞き手はその《力動的質》を聴きます。その体験を通じて聞き手は「ある気分」を感じ取ります。正確には「その気分に浸ってしまう」のです。つまり、その体験によって「そういう気分になる」訳です。それは言葉に出来ない、喜怒哀楽とは違う、掴み所の無い、まさに「気分」です。そんな気分の状態の上に、今までお話しして来たような感情が呼び起こされると考える訳です。

つまり、作り手も自分の曲に浸っている時にはある「気分」になっていると考えられ、その気分とは、言葉に出来ない、対象を持たない(この状態は何かの属性ではないということ)、そんな心の状態であり、強いて言うならばその状態の後で「あの音楽音を聴いていたから、あんな気分になっていたのだ」としか言えないものです。作り手が浸ったこの気分は、その音楽音を聴く他の聞き手にも同じ様に体験されるのではないかということです。

感情とは違って、特定の出来事やものごとにまったく依存しない、人に元より備わった心の動きというものがあり、それが「気分」と呼ばれるものだと考え、さらにそれは《力動的質》の体験によって動かされ得るのだと考える訳です。音楽における「共感」とはこの様なものではないかというのが、ここでの主張です。

気分とは、対象を持たないが故に真に主観的です。主観的であるからこそ、気分とは、聞き手の意識の全体を覆ってしまうのでしょう。気分とは、人の心の在り方そのものなのかもしれません。それだけに人間の自我に深く関わるものではないでしょうか。音楽を通じて共感されている「気分」とは、このようなものだと考えられます。

詩的な表現になりますが、逆説的に「”人々は共感出来る”ということを確かめるために聴くもの」が音楽音だ、という言い方が出来るのかもしれません。

そうなると作曲者としては、自分の作り出した音楽を耳にしている時の「気分」、その音楽に没頭している時の「気分」、すなわち精神的変容(高揚や沈鬱、静謐、神秘など)がその様に聞き手にも伝わるのだ、という確信を持つことから創作が始まると言えるのではないでしょうか。そして、作曲者が音楽に込められるものは、その気分の「強度」ではないでしょうか。さらに言うならば、その強度が大きい音楽を聴いたとき、その強さに応じた感動が作り手と聞き手の双方において得られるのではないでしょうか。

まず、作り手自身がより強く心動かされる様な音楽を創ることが一番であり、その意味において作曲とは、まず自分の感性に対して正直に行うものと言えます。そしてそれは、聞き手と共感できるという確信が有ればこそ行えるものでしょう。

最後に

以上の様に「音楽で共感できるということを肯定する物語」を創ってきたと言える訳ですが、観念的な表現が多くなってしまい解かり難い点も多々あるかと思います。それはひとえに私の理解と文章力の不足によるものです。将来、もっと受け入れやすい「物語」を提示できればと思っています。

以前、別のコラムにおいて「音楽現象は聞き手の感性の中に在る」ということをお話ししました。それは「聴く」という行為において、或る本質を示しているという感触を持っています。ですが「共感」という面からそのことを考えて行くと、どうしても「聞き手の自由」という点に囚われてしまい、作り手の込めようとする「何か」が伝わるという現実を実感できなくなってしまいがちです。

そこで、現実に体験していることをその様に受け入れ、当人なりに了解するために物語が必要だったのです。そこから何かしらの可能性を見付けることが出来るならば、クリエイターとして、これは大変喜ばしいことではないでしょうか。

作曲者が音楽に込められる「何か」とは、作り手の意識を覆った気分なのだと考え、作り手がそうなった様に聞き手もそうなると信じることから始まるのではないでしょうか。作曲の可能性とは、この位置から見えてくるのではないでしょうか。そして、皆さんには何が見えて来ましたでしょうか。

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Masaharu      

ジャズとクラシックをベースに、実験的なクロスオーバー音楽を作曲。舞台音楽やゲーム音楽の制作経験を活かし、物語性のある音楽を追求。