レビュー『リディアン・クロマティック・コンセプト』ジョージ・ラッセル著

ブックレビュー

『リディアン・クロマティック・コンセプト』は、単なる音楽理論書という範疇を超え、音楽の存在論と構造を問い直す、ある種の哲学的な体系であるとまで言われています。本書は、音楽探求に熱心な作曲家や演奏家の方々にとって、従来の機能和声法とは一線を画した、新しい視点を提供してくれる一冊となるかもしれません。

著者のジョージ・ラッセル氏は、生涯を通じて約50年間にわたりこの理論の発展と普及に尽力してきた音楽家であり理論家です。

『リディアン・クロマティック・コンセプト』は、1953年に発表されました。本書は、ヨーロッパの古典和声理論の枠組みに基づかない、ジャズという実践的なジャンルから派生した、初の包括的な和声理論の一つとされており、この点が歴史的に重要な点と言えます。

従来の調性音楽が「ドミナント-トニックの関係」という「Resolution(到達)」の因果律を基盤としていたのに対し、ラッセルの理論は、それを「Being(滞在・あるがまま)」へと根本的に転換させようとする理論史的な挑戦を内包していると考えられます。この理論的挑戦は、後にモーダル・ジャズ(モード・ジャズ)という様式を生み出す直接的な動機となったと言えるでしょう。

理論の中核には、「Tonal Gravity(トーナル・グラビティ=調性引力)」という概念があります。これは、和声が水平的な規則(コード進行)ではなく、統一的なトニックを中心とする自然な秩序原理、すなわち「重力場内の運動」として捉えられるべきであるという哲学です。ラッセル氏は、調的な統一性を最も高度に保つスケールとして、完全五度連鎖から導出されるリディアン・モードを選定し、この垂直的な構造を理論の基盤としました 。

『リディアン・クロマティック・コンセプト』の最大の功績は、20世紀後半のジャズにおける重要な様式転換、すなわちモーダル・ジャズ(モード・ジャズ)の理論的基礎を提供した点にあるでしょう。ビバップ時代の急速で複雑なコード変化に対する反動として出現したモーダル・ジャズは、特定のモードが固定されたトニック・センター上で長時間維持されることを特徴としますが、この理論は、モーダル・ジャズの音楽的実践に初めて体系的な理論的根拠を与えたのです。

この理論が実践に与えた影響は計り知れず、トランペット奏者のマイルス・デイヴィスは、アルバム『Kind of Blue』(1959年)でモーダル・ジャズを世界的に普及させました。特に、収録されている「So What」は、極めて静的な和声構造を持つ点で、リディアン・クロマティック・コンセプトが提唱する垂直的な「Being」の哲学を具現化した完璧な例とされています。

また、ジョン・コルトレーンは「Impressions」などでモード探求を深め、急速なアルペジオをモーダルな枠組みの上で展開する「シーツ・オブ・サウンド」と呼ばれる即興技法を確立しています。一方で、ピアニストのビル・エヴァンスは、静的な和声的色彩を繊細に表現することに貢献しました。

さらには日本人作曲家の武満徹は、この理論を現代音楽史における重要なイノベーションの一つとして認識し、自身の創作活動に影響を与えたことを公言しています。そして本書を「音楽に関する二つの最も素晴らしい本の一つ」であるとして、メシアンの『わが音楽語法(My Musical Language)』と並ぶものと評価しています。

このように、リディアン・クロマティック・コンセプトの枠組みは、即興演奏家や作曲家たちに対して、極めて多様な芸術的解釈とスタイルを許容する柔軟性を持っていたと言えるでしょう。

さらに、この理論のもう一つの決定的な功績は、現代のジャズ教育における主要な言語であるコード・スケール理論の理論的基盤を確立したことではないかと思われます。本書は、特定の和音に対して、その音程を包摂し統一性を持つ特定のスケールを関連付けるコード・スケール理論の基本アプローチを確立し、ジャズ理論を高度な学問として確立する上で先駆的な役割を果たしたと言えるでしょう。

さて、リディアン・クロマティック・コンセプトの理論的深さと影響力は明らかと言えますが、専門的な観点からはいくつかの争点が存在することも事実です。

まず、理論的整合性について、ラッセル氏がリディアン・スケールの優位性を導出する際に、完全五度の連鎖、すなわちピタゴラス音程のみに依拠した点に批判が集中することがあります。これは、理論の哲学的主張である「普遍的な自然な秩序原理」にへの疑問であり、音響学的根拠の選択に「恣意的な選択」があったのではないか、という訳です。

またリディアン・クロマティック・コンセプトは、自然の倍音列から導出される純正律ではなく、人工的に調整された12平均律を前提としている点も、批判の対象となることがあります。ラッセル氏は平均律を実用的な観点から肯定しましたが、この態度は、理論が主張する「自然な秩序原理」と、人工的なシステムとの間に、理論的な緊張関係(アポリア)を生じさせているという指摘が見受けられます。

さらに、音楽実践における課題として、即興演奏の定型化に関する批判も存在します。リディアン・クロマティック・コンセプトが確立したコード・スケール理論は、即興における音の選択を体系化しました。しかし未熟な演奏家がこの理論に過度に依存して、音の選択肢の「マップ」を機械的にたどるだけでは、即興演奏が「目的意識がなく、形のない、あるいは機械的な響き」になりがちである──という懸念が呈されています。理論を教条的に適用することは、かえって創造性を制約してしまう危険性を内包しているのかもしれません。

ジョージ・ラッセル氏による『リディアン・クロマティック・コンセプト』は、ジャズの和声組織を理解するための根本的なパラダイムシフトを提示することで、現代の音楽家に対し、機能和声の束縛から解放された創造的な空間を提供してくれました。

本書の真の価値は、理論そのものの厳密さだけでなく、むしろその理論が芸術家に問いかける根源的な課題にあるのかもしれません。それは、音楽家が「垂直的な統一性と水平的な運動性のバランス」という重力場を、自己の創造的な精神とどのように融合させ、ナビゲートするかという問いです。

本書は、音楽の創造性が単なる音の斬新さではなく、既存の調性体系に対する構造的な理解と深い対話から生まれることを示唆している、極めて重要な文献であると言えるでしょう。

私見ですが、リディアン・クロマティック・コンセプトを徹底的に実践しようとすればするほど、そこには「何をしてもいい自由」という恐るべき空間が広がっていることに気付くと思います。初心者は、本書を一般的な音楽理論書として扱うことは避けるべきだと思います。あらゆる実践的な理論的考察を経た先で出会う本として見るならば、そこには一種の癒しすら感じられる世界が広がっていると言えるかもしれません。個人的には、本書は読む人を選ぶタイプの本だと思います。

私が本書に出会ったのは、学生時代に読んだ雑誌の記事でした。「あのリディクロ(一般にそう略されていたそうです)が邦訳された」と書かれていたのですが、当時は「柔軟な分析理論だ」とか、「新たな作曲概念だ」とか言われるのを断片的に聞くのみで、正確なことは知らなかったです。

今のようにインターネットがある訳でもなく、当時の私は、ひたすら「読んでみたい」と思ったものでした。その後、幸運が重なり入手することが出来ましたが、一読して「?」が頭を駆け巡りました。概念としてはイメージできても、それが音としてイメージし難いのです。

今にして思えば、既成の音楽スタイルから飛び上がろうとする人への、論理的応援歌だったのだと思います。当時の私は、飛び上がろうとしていた訳ではなかった(飛び上がって行くだけの力も無かった)ので、ラッセルの応援も無駄骨だったということなのかもしれず、まさに「本が人を選ぶ」ということを体験した一件でした。

書籍情報

リディアン・クロマティック・コンセプト
ジョージ ラッセル (著)
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『リディアン・クロマティック・コンセプト』の目次

  • 日本の読者の皆さんへ
  • 「調性組織におけるリディアン・クロマティック・コンセプト」について
  • 「河下り」[ River Trip ]に見るジャズの即興スタイルの解説
  • 序章
  • 第1章:バーティカル調性引力
    • レッスン1 コードの「ペアレント・スケール」の決定
    • レッスン2 ペアレント・スケールとリディアン・クロマティック・スケール
    • レッスン3 第二音階度数による(ペアレント・スケール以外の)コード・スケールの選択
  • 第2章:メロディーの分類
    • レッスン4 バーティカル・メロディー
  • 第3章:ホリゾンタル調性引力
    • レッスン5 ホリゾンタル・メロディー
  • 第4章:「遠近関係の環」に見る調性引力
    • レッスン6 コード・パターンの組み立てとコードの置き換え
  • 第5章:調性引力のリディアン・クロマティック順列
    • レッスン7 調性引力表の解説
  • 第6章:トーナル・リソース(Tonal Resources)について
    • レッスン8 リディアン・クロマティック・スケールのアウトゴーイングなトーナル・リソース
  • 要約
  • 調性組織におけるリディアン・クロマティック・コンセプトの理論的基盤
  • 後記
  • 音楽を通して世界を考える(対談/ジョージ・ラッセル:武満徹)
  • ジョージ・ラッセルのリディア概念/武満徹
  • オーネット・コールマンと調性
  • 付録 I、II、III/用語解説/用語索引/ディスコグラフィー/問題の解答

著者について

ジョージ・ラッセル

1923年オハイオ州シンシナティ生まれ。多くのジャズ・ミュージシャンを輩出しているウィルバーフォース大に進学、1944年にNYに進出した。1953年、「リディアン・クロマティック・コンセプト・オブ・トーナル・オーガニゼーション」を発表する。

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