音楽と言葉、創造のサイクル~お城の模型を作るように

エッセイ

AI音声による「この記事の解説Podcast」

音楽を形作る者が「音楽についての文章」を綴るとき、そこにはどのような動機が潜んでいるのでしょうか。

私の場合は、音楽という本質的に言語化し得ない領域を前にしたとき、その変換不可能な強い力を知るからこそ、あえて言葉を紡いでいるような側面があります。

それは、まばゆい光そのものを掴もうとするのではなく、その光が地面に落とす影の輪郭を、筆先で丹念になぞる行為に似ているのかもしれません。

「音楽とは何か」「作曲とは何か」という問いを立て、言葉による定義を試みること。それは逆説的に、音楽そのものが持つ非言語性を認めざるを得ない地点へと、私を立たせます。私の記す文章は、音楽という巨大な存在の淵に立ち、そこで描き出された似姿や、抽象化されたスケッチのようなものと言えるでしょう。

かつて哲学者ヴィトゲンシュタインは「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」という言葉を残しました。しかし、芸術人類学者の中島智氏が示唆するように、私たちは語り得ぬものに対して沈黙を守る一方で、「語り得ぬものの語り得なさ」そのものを言語化することは可能なのではないでしょうか。

沈黙の淵に立ち、なぜそこが境界となっているのかを問い、語ること。それもまた、創作に携わる者が持ちうるひとつの誠実な態度であるように思うのです。

私にとって、作曲を通じて得られる音楽体験は、音楽の抗いがたい力と「クオリア」を実感させる無二の瞬間です。ここで言うクオリアとは、言葉では説明し尽くせない「独特の質感」や「味わい」を指します。

その体験に触発されて生まれる言葉は、言わば一次的な創作に対する「二次創作」のような性格を帯びていきます。

こうして紡がれた文章は、単に音楽に従属するものではなく、ましてや音楽を別の形に変換したものでもありません。例えるならそれは、音楽という惑星の引力圏に留まりながらも、自らの軌道を描き続ける「衛星」のような、独立した創作物と呼べるものかもしれません。

この言語化というプロセスは、いつしか私自身の創作活動の一部として、ひとつの形を成していきました。音楽に耳を澄ませ、微細な変化を眼差し、そこから拾い上げた言葉を組み上げていくその過程は、文章を一つのオブジェとして「構成(作曲)」していく作業に近いと言えます。

「作曲すること」「文章を書くこと」、そしてこれらの行為によって生み出された断片を自らの人格のもとに集積し、ひとつのフォルムを立ち上げること。こうした営みは、私にとって創作活動の全体像を象徴する「お城の模型」を組み立てていくような、静かな高揚感に満ちたものです。

その細部に宿る美意識や、全体の調和の中に混じる歪み、そしてフォルム全体から立ち現れる独自の質感。それらをメタ(高次)な視点から味わうことに、私は強く惹かれているようです。

さらに考察を深めるならば、これは「自己の創作プロセスを外部から観測するシステム」を、自らの手で構築している状態だと言い換えられるでしょう。

つまり音楽と言葉という、質的に異なる二つの表現が組み合わさることで、それは自己の創造性をアップデートするための「観測実験装置」として機能し始めるのではないかと思うのです。

この装置の内部には、二人の自分が存在しています。ひとりは、音と向き合い具体的に音符を置く「実践者」。もうひとりは、その実践者の振る舞いを俯瞰し、記録し、次の創作への糧を探る「観察者」です。

この関係性が機能し始めると、システム全体がひとつの生命体のような様相を呈し始めます。ここで想起されるのが、生物学における「オートポイエーシス(自己生産)」という概念です。これは、システムが自分自身を構成する要素を、自ら作り出し続けていく仕組みを指します。

音楽を作るという実践が、「これは何なのか」という問いを導き出し、言語化を促します。そして「言葉にする」という観察行為が、自己を客観視させ、次の音楽を生み出すための新たな視点やエネルギーを供給します。

音楽は言葉を呼び、言葉は音楽の土壌を豊かにする肥料となる。この自律的な循環によって、創作の生命力は維持されていくように思われます。

しかし「生命体」である以上、そこには常に「健康状態」の波が存在します。私の場合、観察者としての言語活動に比重が偏りすぎると、大抵どこか不健全な感覚を覚えることになります。この居心地の悪さは、システムの根源的なエネルギー源であるはずの「実践(音楽制作)」が停滞していることへの、内なるアラートなのかもしれません。

つまり創造的な血流が滞り、生命力が失われかけているサインです。私は、何よりもまず音楽を具現化する者でありたいと願っています。実践を伴わないまま言葉だけが積み上げられていく状況に、空虚さを感じてしまうのは、批評家である前に一人の「実践家」でありたいという欲求によるものでしょう。

「言葉を尽くす自分が、実践者としての自分から離れていないか」という問いかけは、常に内なる他者性となって、私を支え、同時に戒めています。

もちろん、創作の途上において言葉の森に深く迷い込む時期は、誰にでもあるはずです。それは決して無駄な時間ではなく、むしろ必要なプロセスであると、自身の経験からも言えます。

ですがその上で、私は「描かない画家」のような在り方に物語性を見出すよりも、たとえ拙くとも、何かを生み出し続ける実践の側に身を置いていたいと思っています。

思考を言語化することは、私の創作システムを駆動させる一部であり、同時にその健やかさを測る「健康診断」でもあります。今、この文章を綴っている瞬間も、観察者としての視線が私を眼差しているのを感じます。

言葉の海での思索は、次の創作のための大切な準備期間です。そして創造の循環を澱ませないためには、実践と観察のすべてを攪拌し続ける、しなやかなイメージを持つことが肝要なのだと、改めて自覚しています。