レビュー『クレーの絵と音楽』ピエール・ブーレーズ著

ブックレビュー

(初出2002年4月10日:追記2025年5月19日)

クレーの絵と音楽
筑摩書房
ピエール ブーレーズ (著), ポール テヴナン (編集), 笠羽 映子 (翻訳)

ピエール・ブーレーズ(1925-2016)は、20世紀後半を代表するフランスの作曲家、指揮者、そして音楽理論家です。パウル・クレー(1879-1940)は、20世紀美術において重要な位置を占める画家であり、音楽的背景も有していたことが知られています。ブーレーズ著『クレーの絵と音楽』は、この二人の芸術家の作品と思想の関連性を探求した書籍です。

ブーレーズは本書において、クレーの視覚芸術と音楽の原理との間に存在する繋がりと類似性を探求し、クレーの創造プロセスと芸術哲学が音楽的思考と深く共鳴していると主張しています。

音楽家の視点から、ブーレーズはクレーの絵画におけるリズム、ハーモニー、そしてポリフォニーに類似した要素を分析しています。ブーレーズは、クレーが作品タイトルに音楽用語を用いるのは、両芸術に共通する特徴を明らかにするためであると指摘します。また、クレーの作品における幾何学と有機的な原理の探求にも注目し、それらの中に音楽の構成と構造の姿を読み取っています。さらに、クレーが時間と空間を分割する原理としてチェス盤を使用している点にも着目し、これが音楽の領域にも適用可能であると論じています。

本書で議論される主要なテーマとしては、芸術家の創造プロセスにおける芸術形式間の類似性、クレー作品における幾何学と有機的な原理の役割、クレー作品における自然・芸術・音楽の関係、そしてブーレーズ自身のクレーの芸術的ビジョンとの共鳴が挙げられます。ブーレーズは、自身の音楽における「有機的な発展」に関するアイデアと、クレーの視覚における同様のアイデアとの間に関連を認めています。

フランス語による原著『Le pays fertile』は、フランスにおいて概ね好意的に受容されています。例えば、本書をブーレーズからクレーへの「愛の宣言」と評し、多数の図版を通じて絵画と音楽の間の深い関係を示していると強調するレビューが存在しています。また、クレーが言語を基本的な原理に単純化し、一つの主題から複数の結果を導き出す能力や、ストラヴィンスキーやウェーベルン、バッハ、モーツァルトといった音楽家との潜在的な関連性について言及されたレビューもあります。のちにフランスで出版された改訂版では図版が豊富になり、絵画と音楽の繋がりがより分かりやすく示されるようになっています。

余談ですが、パリで開催されたパウル・クレー展の付随書籍に収録されたブーレーズのエッセイでは、ブーレーズが自身の音楽におけるアイデアとクレーの視覚におけるアイデアの間に「重複」を認めている点や、「根本的なジェスチャー」といった概念を通じて両者の芸術的アプローチの繋がりが捉えられており、大変興味深いです。

『クレーの絵と音楽』は、ピエール・ブーレーズがパウル・クレーの芸術と音楽との間の関係性を探求した書籍であり、美術と音楽の学際的研究に重要な貢献をしています。ブーレーズは、作曲家としての具体的な知識と感性に基づき、クレーの作品を音楽のレンズを通して分析し、両芸術形式に共通する構造的、概念的な繋がりを明らかにしたと言えるでしょう。

本書は、日本、フランス、英語圏などにおいて、それぞれの文化的背景や学術的関心に応じて受容されてきました。ブーレーズによるユニークな視点は、視覚芸術に対する新たな解釈の可能性を示唆し、両芸術分野の学者や芸術家そして愛好家にとって、参照すべき著作の一つとなっています。

作曲における“秩序”とは、どういった意味を持つものなのでしょうか。秩序をそれ単独として思索するのではなく、そこからどの様な音楽を“演繹”するのかと問うたならば、秩序の遵守から生み出されるものとそれ以外のものとの“ゆらぎ”によって、結果として「秩序から多様性が生み出される」という事実に気付くものなのではないでしょうか。

これは、音楽作品から論理を“帰納”していくこと、つまり一般的な音楽理論に関する見解とは反対の位置に存在するものと言えるかもしれません。そしてこのことは、作曲者が日頃、無意識的に行っている作曲行為の一部と言えるでしょう。

ブーレーズは本書において、画家クレーの表現する「幾何学」や「有機的な原理」に着目し、コンポジシオン(作曲・構成)の姿を露にして行きます。独自の鋭さを持つ口調は、時に理知的で説得力に溢れ、時に自らの経験を踏まえた熱さを感じさせてくれます。とかく、いかにもフランス的なインテリとして扱われることの多いブーレーズですが、私としては、その数学者のような(事実、彼は数学に秀でています)直感から生み出される「真実の側面」には、論理では説明できない共感を感じます。

クレーの絵と音楽
筑摩書房
¥2,670(2025/05/19 01:56時点)
ピエール ブーレーズ (著), ポール テヴナン (編集), 笠羽 映子 (翻訳)

『クレーの絵と音楽』の目次

本書には目次がありませんので、「訳者あとがき」から以下の文章を引用しておきます。

まさに、ここでブーレーズは、若き日の自分に深い感銘を与えたクレーの絵画や、50年代後半にシュトックハウゼンを通じて親しむようになったクレーの造形をめぐる省察にあらためて共感と敬意に満ちた眼差しを向け、音楽にも造詣が深く、生涯音楽とともに生きたクレーの創造活動を通り一遍のやり方で音楽と結び付けることなく、クレー同様、そしてクレーとともに、現代西欧の芸術創造の根源的な問題にまっすぐ向かい、クレーが造形芸術の領域で展開した創造的な思考を、クレーの詩情に溢れた絵画にしばしば立ち返り、創造のプロセスにおける理論的な思考の役割を示唆しながら、音楽の世界に閉じこもることなく、しかし音楽の領域で展開していくのだ。(本書p135より)

著者について

ピエール・ブーレーズ

著者ブーレーズは、(中略)『ル・マルトー・サン・メートル(主なき槌)』などにより、1950年代のはじめには早くもヨーロッパの現代音楽界で作曲家としての地位を確立し、その後も音楽言語や音楽思考の革新を目指して新たな作品を発表するとともに、多くの著述を通じて理論家・批評家・教育者として果敢な活動を展開し、さらに指揮者としても現代音楽を中心に数多くの作品の傑出した演奏を引き出してきた人物であり、特に創立当初から数十年にわたって主導してきたパリのポンピドゥー・センターに付属した音響・音楽共同研究所(IRCAM)の所長の地位を退いた1992年以来、意欲的な指揮・録音活動を再開し、広く欧米・日本の西洋音楽ファンを喜ばせている。(本書より引用)