リアルで関係性のある人から見ると、私は論理的な──もっと率直に言えば理屈っぽい──人物として受け取られている傾向があるように思われます。
相手からすると、話題の整合性を確かめたり、議論の筋道を整えたりする役割が自然と浮かび上がりやすく、私の内奥にあるビジョンや質感への興味を持たれにくいと感じることがあります。
しかし、そこで少し立ち止まって考えてみると、ある事実に気づきます。
話題を論理的に整理しているように見えるその行為の内側で、私自身はまったく別のことを感じています。それは、対象がもつフォルムを彫琢し、美しいと感じられる形態へと近づけていくことへの、ある種の喜びのようなものです。
整理とは目的ではなく、その行為を通じてフォルムを感得するための過程であり、私にとってはそれ自体が美的な体験として感じられています。
問題は、そのフォルムが、少なくともその時点では自分にしか見えていない(感じられていない)、という事実にあります。
相手には「論理的な整理」の結果だけが届き、その過程で私が何を感じていたかは伝わらないわけです。言い換えるなら、相手が受け取る「出力の形式」と、私の内側で起きていることとの間には、かなりの開きがあるように思われます。
この構造を考えるときには、「OSとしての心の仕組み」というメタファーを用いるのが有効かもしれません。
会話においても、作曲においても、文章においても、アウトプットの形式はそれぞれ異なるように見えますが、それらを生み出している根底の原理は同一のものだろう、という感覚があります。
コンピュータで言えば、表示される画面やアプリケーションの種類がどれだけ違っていても、その下層で稼働しているOSは変わらない──そのような意味でのOSです。
このOSは、恐らく幼い頃からすでに稼働していたものだろうと思われます。自分がアウトプットというものを自覚し始めた頃には、すでにこの仕組みが働いていた、という感覚があります。後天的に獲得したというより、気づいた時にはそうであった、という方が正確でしょう。
ただし、それを「OSである」と言語化できたのは、ずいぶん後になってからのことです。
あるとき、自己の至らなさを痛感し、「自分を上手く扱えていない」という事実と直面せざるを得ない状況がありました。そのような外側からの要請によって初めて、自分という仕組みを対象化して見つめる必要が生じ、そこでOSというメタファーが浮かび上がってきたのだと思います。
つまりこのメタファーは、静的な自己分析の道具として生まれたのではなく、「自分を上手く扱うにはどうすればよいか」という切実な問いへの応答として立ち上がってきたものと言えるでしょう。
さて、こうした観点からアウトプット──作品や文章、あるいはウェブ上にまとめられた制作物──の意味を改めて考えてみると、それらは単なる成果物ではなく、三つの異なる役割を同時に担っているように感じられます。
ひとつは、痕跡としての役割です。アウトプットとは、インプットをどのように扱い処理したかの記録であり、OSがどのように稼働したかの足跡でもあります。作曲であれ文章であれ、出来上がったものの中には、その過程での判断や感得の積み重ねが、形として残っているはずです。
もうひとつは、検証素材としての役割です。アウトプットを見返すことによって、自分のOSがどのように機能しているかを確かめることができます。ここでの判断は適切だったか、このフォルムへの感覚は自分の意図と一致していたか、飛躍や跳躍によって異なる価値につながったのか──そうした問いを通じて、OSへの理解を深め、アップデートしていくことが可能になります。
そして三つ目は、象徴としての役割です。これは少し説明が難しいのですが、アウトプットはOSの稼働結果であると同時に、OSそのものを象徴するものとしての価値を持ち得るのではないかと思うのです。作品の中に込められた美的判断や構造への感覚は、その作者がどのような原理で世界を感得しているかの、いわば縮図のようなものだと言えるかもしれません。
こう考えると、即興的な日常のコミュニケーションにおいて、自分の「出力の形式」だけが切り取られ、その内実にある質感や微細な感性が削ぎ落とされていくことへの違和感が、少し別の角度から見えてくるように思います。
私が着目しているのは、世間的な評価の高低ではありません。日常言語という粗い網の目によって、感性やクリエイティビティという複雑な領域が単純化され、見落とされてしまうことへの、静かな抵抗のようなものと言えるでしょう。
日常の会話という平準化された場では、OSそのものを直接見せることはほとんど不可能です。他者に届くのは、その時々の文脈に応じて生成された出力の一形式(例えば、論理的な整理という外見)に過ぎません。
しかし、独立した作品や文章というアウトプットの中には、そのOSの稼働痕跡がより純度の高い形で残されているはずです。痕跡を丁寧に辿ることができれば、表層の形式だけからは見えて来ないものが、自ずと浮かび上がってくるのではないかと思うのです。
もちろん、すべての人にその解読を期待するわけではありませんし、またそうした期待を持つこと自体が適切かどうかも、よくわかりません。
ただ、アウトプットという行為は、それがどのような形をとるにせよ、自分のOSを象徴するものとして世界に置いておく行為でもある──そのような意味において、制作を続けることの意義を、こうして改めて確認しているところです。
