サンプリング素材を中心に用いた作品を仕上げたとき、ある種の脱力感(肩透かし感)を覚えることがあります。とはいえ、結果として形になった音楽に不満があるわけではなく、むしろ完成したことへの充実感が伴っています。
ただ、それとは別の心の層に、どこか空洞のようなものが残ることがあり、その感覚の正体をずっと曖昧なままにしてきました。
近頃ようやく、その正体が少し見えてきたような気がしています。それは恐らく「制作に際して消耗した量」と「充実感の量」が釣り合っていない、という感覚だったのではないかと思います。
もっと言えば、消耗しなかったこと自体を、どこかで「本気でなかった証拠」として受け取っていたのかもしれません。
サンプリング素材との対話における認知負荷は、音符を一つひとつ積み上げる伝統的な作曲のそれとは、明らかに種類が異なります。耳をそばだてると語りかけてくる「サンプリング素材の声」を聴きながら音楽時間を構成していくプロセスは、自分にとってある種「容易なこと」として感じられます。
そしてこの「容易さ」が、かつては違和感の種でした。容易にできるということは、それほど深くコミットしていないということではないか、と思えたのです。
ただ、少し立ち止まって考えてみると、容易に出来るようになったことは、時間をかけて内面化されたスキルの現れでもあるはずです。熟練した職人の手さばきが滑らかで無駄がないとき、それは習熟の深度を示しているのであって、怠惰の証ではありません。
そう考えると、「エネルギーを多く消費することが誠実な在り方である」という感覚は、どこかで自分が作り上げた思い込みだったのだろうと気づかされます。
その思い込みの出所を辿ってみると、それは、結果に対する言い訳を事前に用意する行為に近いものだったのではないか、という地点に行き付きます。「これだけ消耗した」という事実は、仮に作品が期待に届かなかったときの免責として、ある程度機能するものです。
キャリアの初期においては、そうした自己防衛が前に進む助けとなることもあったでしょうが、それを長く内在化し続けることによって、いつしか別の問題を生んでいたように思います。
では、消耗しない分のエネルギーはどこへ向けるべきなのか。このことを考えるとき、頭に浮かぶのは「この作品は何なのか」という問いです。個々の音符の精度や素材の出来ではなく、作品全体のフォルムを感受し彫琢すること。作品と向き合いながら、その正体を問い続けること。
すなわち、創る者でありながら、創造という場の一要素として在り、かつその動的な状態を少し離れたところから眺める者でもある──という在り方を背景にした問いです。
こうした在り方の実現には、今の自分にはまだ多くのエネルギーが必要で、言ってみれば、より好ましいエネルギー配分への移行期の姿が今ここに見えている、ということなのかもしれません。
こうした気づきと並行して、自身の制作環境についての捉え方も少しずつ変わってきたように思います。
ウェブサイトをひとつのハブとして、音楽作品、文章類、日々の断片的な思索の痕跡を置いていく日々。彫琢性の高い作品を丁寧に磨き込む時期もあれば、素材の声に耳を傾けながら散文的に音楽を散らしていく時期もあります。どちらの作業においても、「自己の仕組みが心地よく機能し循環している」という実感が等しく感じられていることに、改めて気がつきました。
かつての自分は、完成度の高い作品を積み上げることが創作における誠実さのひとつの証だと考えていた節があります。
しかし今は、それよりも根本的なこととして、創る者としての自分を活かし育む仕組みが、ほどよく循環し続けているかどうかの方が大切なのではないか、と感じています。単一の作品の完成度と、その作品を生み出した土壌の質とは、別々に問われるべきことなのかもしれません。
ビオトープという言葉があります。もともとは生態学の用語で、特定の生物群集が生息する小さな生態空間を指しますが、外部から適度に隔てられながらも内部では物質とエネルギーが循環し続けるというその性質が、今の自分の制作環境の在り方と重なって感じられます。
「よい作品をつくること」を最上位の目標として進むのではなく、「よい作品が生まれ得る環境そのものを整え、発展させること」を土台と捉え、それと向き合い手入れを続けること。この順序の入れ替え(視点の転換)は、実際に意識してみると思いのほか大きな違いをもたらすものだと感じます。
こうした在り方は、程度の差こそあれ、すでに多くのアーティストが日々の制作の中で体験し取り組み続けているものでしょう。今回は、それを一度自分の言葉にしておくことで、次の実践と展開の足がかりになるのではないかと思い、ここに書き留めておくことにした次第です。
