先日、音楽配信プラットフォームのBeatportが、AIによって生成された楽曲の販売を禁止したというニュースを目にしました。完全にAIが生成した楽曲は入稿の段階で弾かれ、人間が主体となってAIツールを部分的に使用した楽曲は許可されつつタグが付けられる、という運用だそうです。

規約の境界線
同様の動きは今年に入って複数のプラットフォームに広がっています。
Bandcampは今年一月、AI生成楽曲の完全な禁止に踏み切りました。Traxsourceは六月、AIを補助的に用いた楽曲に「AIアシスト」というラベルを付け、チャートの対象からは外すという運用を始めています。Tidalは完全AI生成楽曲へのロイヤリティ支払いを停止し、Deezerはレコメンド機能から除外するという措置を取りました。Spotifyも八月、AIによる音楽や架空のアーティストを識別するための仕組みを発表しています。
こうした動きの背景には、2026年7月に業界団体が示した「AI-Generated(AIが創造的要素の大部分を生成したもの)」と「AI-Assisted(人間が実質的に制作し、AIは一部の要素に使用されたもの)」という二層の区分けがあるようです。
一読して、これは妥当な線引きだと感じました。制作の過程でAIをどう用いるかという実務的な話と、AIにほぼすべてを委ねて生まれた楽曲を自分の名前で発表するという話とは、明らかに性質の異なる行為です。後者だけがプラットフォーム側から問題視されるのであれば、多くの作曲家にとって実害の少ない規制だと言えると思います。
曖昧さの正体
ただ、この線引きには、誰も明確に説明していない部分があります。「大部分」や「実質的に」という言葉が、どの程度の関与をもって満たされるのか、規約のどこにも定義されていません。
例えば、人間がメロディーや和声、構成を決め、AIに音色や伴奏の候補を生成させた場合、それは「AI-Assisted」と呼べるのでしょうか。あるいは、人間が大まかな指示を与え、AIがほとんどの音素材を生成した場合はどうでしょうか。
問題は、単純に人間とAIの作業量を比較するだけでは境界をきれいに引けないということです。何をどれだけ人間が行ったかだけではなく、どの部分に人間の判断が働いていたのかによっても、見え方はまるで変わってくるからです。
検出の仕組みもプラットフォームごとにばらばらで、Bandcampに至っては自動検出のシステムを持たず、利用者からの通報だけを頼りに削除を判断しているといいます。その結果、AI生成に見えるジャケット画像や、リリースの頻度が高いという理由だけで、人間が作った作品まで疑われ、削除されてしまった例も報告されています。
線引きの言葉は明快でも、その運用は、思いのほか曖昧な土台の上に成り立っているように見えます。
数字の裏側
この曖昧さを踏まえた上で、もう一つ気になったのが、Deezerが公表している統計データでした。同社によれば、日々アップロードされる楽曲のうち、四割以上がAIによる完全生成だという一方、実際に再生されている割合はわずか1〜3パーセントに留まるというのです。
数字だけを見れば、これは「人はやはり人の手による音楽を選んでいる」という、聴き手の選好を示す話のようにも読めます。
しかし、この数字をもう少し仔細に見ていくと、単純にそうとは言い切れない事情が見えてきます。まず、AI製だと検出された楽曲は、そもそもDeezerのレコメンド機能やエディトリアル・プレイリストから自動的に除外されているのだそうです。
つまり1〜3パーセントという数字は、聴き手が完全に自由な条件で選んだ結果ではありません。少なくとも、この数字だけから「人はAI生成音楽を選ばない」と結論づけることはできないでしょう。
さらに、その1〜3パーセントのうちの大半、八割を超える再生が、実際の聴取ではなく機械的な不正再生であることも判明しています。通常のカタログ全体における不正再生の割合が一割に満たないのに対して、AI生成楽曲に限ってその割合が八割を超えるというのですから、その差は際立っています。
Deezerの経営陣も、AI楽曲の大量アップロードの主な目的として、音楽そのものを聴かせることではなく、ストリーミングによる収益を不正に得ようとする行為を挙げています。ここには、AI音楽をめぐる議論を考えるうえで、見落としてはいけない区別があるように思います。
二つの倫理の混同
ここまで整理してみると、この規制と統計が扱っているものは、実は性質の異なる二つの問題が、一つの言葉のなかに押し込められているのではないかという視点が生まれてきます。
ひとつは、音楽業界における不正行為をどう取り締まるかという問題です。自動生成された楽曲を大量に投稿し、機械的な再生によって収益を不正に得ようとする行為は、明確に取り締まられるべき性質のものです。そこには、他者に不当な損害を与えないことや、音楽産業の収益分配を歪めないことといった、制度上の問題にとどまらない倫理的な側面もあります。
もうひとつは、生成AIによって作られた音楽を、誰がどのような意味で「作った」と言えるのか、という問題です。こちらは不正行為の話ではなく、創作という営みの内実にかかわる、もっと静かで、答えの出しにくい美学的、あるいは倫理的な問いです。
この二つは、本来別々の座標軸の上にある話のはずです。ところが、プラットフォームの規約や報道では、両方が「AI-Generated」という一つのラベルのもとで語られてしまうことがあります。AIによって生成された音楽であることと、それを利用して不正な収益を得ようとすることは、同じではありません。
また、不正ではないことと、そこに十分な創作性や芸術的価値があることも、同じではありません。本来は別々に考えるべき二つの問いが、「AI」という一つの言葉によって結び付けられてしまっているように見受けられます。
もしかすると、そこには制度上の事情もあるのかもしれません。不正なストリーミングへの対策という地味で経済的な問題よりも、「人間の創造性とAI」という物語のほうが社会的な関心を集めやすく、規制への支持も得やすいのかもしれません。
不正への対策という実務的な必要性が、いつのまにか、AIによる制作全般への警戒という、もっと広い物語に横滑りしていく。そうした力学が働いていたとしても、不思議はないように思えます。
最後に
気になるのは、この横滑りの副作用です。不正な行為がかなりの割合を占めているという事実があるからといって、AIを創造的な道具として、例えば自分自身の音楽的な技術や修練を反映させるための、いわば拡張された楽器として扱おうとする作曲家までもが、同じ網にかけられて締め出されてしまうとしたら、それは望ましいことではありません。
不正は取り締まられるべきですが、その取り締まりの副産物として、まだ言葉になりきっていない新しい創作の形までもが、粗い基準によって一緒に排除されてしまうことは、好ましくないと思われます。
私自身は、音楽への責任は、身体を通じた素材とのやり取りのなかでこそ引き受けられるものだと考えてきました。それは今のところ変わらない実感です。ただ、AIという道具の扱い方が今後どのように広がり、また作曲という営みの輪郭がそれによってどう変化していくのか、正直なところ、まだ見通せてはいません。
プラットフォームの規約が急いで線を引こうとする一方で、その線の内側で何を作り、何に責任を持つかという問いは、もう少し長い時間をかけて、自分の手と耳で確かめていくしかないのだろうと思います。
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